さとり

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

さとり

仏教の悟り (さとり、覚り、bodhi、बोधि (sanskrit))は、「覚悟」「証(しょう)」「修証(しゅしょう)」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「菩提(ぼだい)」「道(どう)」などの別称がある。
真理(法)に目覚めること。迷いの反対。さとりは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻を続けているのは、それは何事にも分別の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。

釈迦(しゃか)は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった。そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河(にれんぜんが)のほとりで村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして真理を悟ることができた。
その悟りは究極最高のものだったので「等正覚」(阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい) anuttaraa samyaksaMbodhiH)と呼ばれ、釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「仏陀(ぶつだ)」になった。
この悟りの境地を「涅槃」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。

また、悟りを求める心を菩提心という。悟りを求める点では部派仏教大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞四諦の教えを聞いて修行し、縁覚十二因縁を覚ってそれぞれ解脱するとする。
大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜という利他行を実践する菩薩行を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、仏教の悟りの特徴である。

また「覚り」とも言い、これは旧訳ではサンスクリット語「vitarka」の訳である。vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicaara」(旧訳では観(かん)、新訳では伺(し))といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。

また「覚り」は、新訳では「bodhi」の訳で「菩提」と音写され、覚り、もしくは覚りの智慧を表す。古くは「道(どう)」「意」「覚意」などと訳された。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を等正覚、あるいは単に正覚などというときの「覚」がそれである。

大乗起信論 』では、阿頼耶識に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。
我々の心性(しんしょう)は、現実には無明に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。ところで、無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明する。つまり、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いているのである。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されており、この論書の特長である。