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じりきたりき

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

自力 他力

 自力と他力との併称で、自他二力とも言うことがある。
 すなわち、自力の功力を用いるのを自力とし、他の力を藉りるのを他力と言う。

現觀邊の世俗智は寃敵ありて勢力なし、寃敵あるが故に自他地を修し、勢力無きが故に他力に依りて修す。世第一法は寃敵無くして勢力あり。寃敵無きが故に唯自地を修し勢力あるが故に自力に依りて修す。〔大毘婆沙論4、T27.0018c〕
菩薩、自力にて菩提心を発す、是れを自力と名づけ、他に因りて発心するを是れを他力と名づく〔菩薩地持経1発菩提心品、T30.0890b〕

 これらは自ら勢力があり、または利根であるものは自己の功力を用い、勢力がないもの、もしくは鈍根なるものは、他の力を藉りて行修する、ということを説いたものである。

 また、曇鸞の『往生論註』巻下に自他二力の相を述べて

 まさにまた例を引きて、自力・他力の相を示すべし。人の三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定をもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごとき等を名づけて自力となす。また劣夫の驢に跨りて上らざれども、転輪王の行に従ひぬれば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに、障礙するところなきがごとし。かくのごとき等を名づけて他力となす。愚かなるかな、後の学者、他力の乗ずべきことを聞きて、まさに信心を生ずべし。〔論註、p.157〕

と言い、又、『十住毘婆沙論』の難易二道の説を引き

五にはただこれ自力にして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。〔〃、p.48〕

と言う。これは、難行道は自力であって他力の持はなく、易行道は仏の願力に乗じて浄土に生じ、大乗正定聚に入るから、名づけて他力となすことを明かしたものである。
 また、

 自力とは此の世界に道を修し、実に未だ浄土に生ずることを得ず。‥‥他力とは若し阿弥陀仏の大悲願力、念仏の衆生を摂取することを信じ、即ち能く菩提心を発し、念仏三昧を行じて三界の身を厭離し、行を起こして施戒修福し、一々の行の中に於て廻して彼の弥陀の浄土に生ぜんと願ぜば、仏の願力に乗じ、機感相応して即ち往生することを得。〔浄土十疑論〕

と言い、

 如来は八万四千の法門を説くと雖も、唯念仏の一門のみありて是れを他力と為し、余門の修道は惣じて自力と為す。〔念仏鏡〕

と言っている。これはまた、浄土の一門をもって他力の法として、余門の修道を総じて自力とするものである。
 法然は善導の意を承けて、大いに他力本願の義を強調し、そのために浄土一宗を開立したのである。

 自力他力の事はいかが意え候べき。答、源空は殿上へまいるべき器量にてはなけれども、上よりめせば二度までまいりたりき。これはわがまいるべきしなにてはなけれども、上の御ちから也。まして阿弥陀ほとけの御ちからにて、称名の願にこたへて来迎せさせ給はん事は、何の不審かあるべき。〔和語灯録四十二問答、J09_0577A〕

また、自他二力の解釈に関しては、

 凡そ自力他力とは聖浄二門相対して之を論ず。浄土門の中に正雑二修の別ありと雖も、共に彼の仏願に乗ずるが故に皆他力と名づく。聖道門とは即ち難行道なり、是れ自力なるを以っての故なり。浄土門とは即ち易行道なり、是れ他力なるを以っての故なり。〔漢語灯録10基親取信本願章、T83.0170a〕

と言い、良忠の『選択伝弘決疑鈔第1』にも

自力他力とは自の三学力を名づけて自力と為し、仏の本願力を名づけて他力と為すなり。問ふ、聖道の修行も又仏加を請ひ、浄土の欣求も自の三業を行ず。而るを偏に名づくるの意如何。答ふ。聖道の行人は先づ三学を行ず、此の行を成ぜんが為に而も仏力を請ふ、故に自力に属す。浄土の行人は先づ仏力を信じ、仏願に順ぜんが為に而も念仏を行ず。故に他力に属するなり。自は強く他は弱きと、他は強く自は弱きと之を思ふて知るべし。水陸二道の譬の意自ら顕らはなり。〔選択伝弘決疑鈔第1、T83.0044b〕

と言う。
 また、法然門下の幸西などは一念往生の義を立てて、多念相続を自力念仏として排するのに対して、法然はその謬を指示して七箇条の起請文に

又念佛のかすをおほく申すものを。自力をはげむといふ事。これ又ものもおほえずあさましきひが事也。ただ一念二念をとなふとも。自力の心ならん人は。自力の念佛とすへし。千遍萬遍をとなふとも。百日千日よるひるはげみつとむとも。ひとへに願力をたのみ。他力をあふきたらん人の念佛は。聲聲念念しかしなから他力の念佛にてあるへし。〔和語灯録、J09_0507B〕

と言う。これは一念多念を問わず、仏の願力を頼むものを他力の念仏とし、自力の往生を期するものの念仏を自力念仏としたものである。
 また、隆寛の『自力他力事』に

念佛ノ行ニツキテ。自力他力トイフコトアリ。コレハ極樂ヲネカヒテ。彌陀ノ名號ヲトナフル人ノ中ニ。自力ノココロニテ念佛スル人アリ。マツ自力ノココロトイフハ。身ニモワロキコトヲハセシ。口ニモワロキコトヲハイハシ。心ニモヒカコトヲハオモハシト。加樣ニツツシミテ念佛スルモノハ。コノ念佛ノチカラニテ。ヨロツノツミヲノソキウシナヒテ。極樂ヘカナラスマイルソトオモヒタル人ヲハ。自力ノ行トイフナリ。‥‥他力ノ念佛トハ。ワカ身ノヲロカニワロキニツケテモ。カカル身ニテ。タヤスクコノ娑婆世界ヲイカカハナルヘキ。ツミハ日日ニソヘテカサナリ。妄念ハツネニヲコリテトトマラス。‥‥極樂ヘイタリテノリヲキキ。サトリヲヒラキ。ヤカテ佛ニナランスルコトモ。阿彌陀佛ノ御チカラナリケレハ。ヒトアユミモ。ワカチカラニテ極樂ヘマイルコトナシトオモヒテ。餘行ヲマシヘスシテ。一向ニ念佛スルヲ他力ノ行トハマウスナリ。〔自力他力事、T83.0920b〕

とあるのは、法然の説と同義である。
 しかし、証空および親鸞はひとえに安心証得を重要視して、行者機功の三業を以ってすべて自力として、ただ専ら本願を信楽し、これに帰投するのを他力として、念仏はただ信後の報恩のために唱えるべきものでであるとしたのである。

阿弥陀仏者即是其行と得つれば、願行具足の故に、口に唱ふるも願行具足、身に体するも願行具足、心に念ずるも願行具足なり。能念の衆生の方に付いては三業各別なれども、所念の行体の方は、即是其行にて有る処を指して念声是一といふなり。然れば則ち機方の自力の功を取らずといふ型よりして、三業門の外の他力の行と云ひて、自力三業に励む行をば廃するなり。〔選択集秘2、J08_0372B〕

と言われるのがその意である。また、親鸞の『末灯鈔』に

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。〔末灯鈔、p.746〕

と言われるのがその意味である。