にちれんしゅう
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日蓮宗
日蓮が『法華経』にもとづいて開いた宗派。天台宗が法華経迹門(しゃくもん)の方便品に重きをおくのに対して、この宗は本門の寿量品を中心とする。
法華宗ともいうが、現在では身延山久遠寺を祖山とし本迹一致を立場とする系統を日蓮宗と称し、本迹勝劣を主張する系統は、それぞれ法華宗、日蓮正宗などと号する。
教理と実践
法華経本門の寿量品を一経の中心と定め、仏教の真髄は妙法蓮華経の五字におさまるとし、唱題成仏を説く。教相の上では五綱の教判をたて、法華経は釈迦一代の教法中で最も勝れ(教)、仏種をうえつけられていない本未有善のひとを対象に(機)、末法の時代に適し(時)、日本国に弘まるのにふさわしく(国)、小乗から大乗へという教法の流布する順序にかなったものである(序)とする。
また実践の上では三大秘法をたて、十界曼茶羅として具象化される久遠の本仏(本門の本尊)を念じて、南無妙法蓮華経(本門の題目)と唱えるその処に即身成仏の益を得るとし、法華経を受持し実践することが戒律であり、国家・社会が実践の場(本門の戒壇)であるという。そして、教えを弘めるには折伏の方法を用いる。
相承
法華経が伝えられた系譜について、釈迦―天台大師―伝教大師―日蓮と次第するのを外相承(げそうじょう)・迹門相承といい、日蓮自身を上行菩薩の化身であるとして、釈迦―上行菩薩―日蓮と次第するのを内相承・本門相承と称し後者を重んずる。
歴史
日蓮が建長5年(1253)4月28日に安房(現千葉県)の清澄山で初めて題目を唱えた時を開宗の日とする。そののち鎌倉幕府の弾圧にもめげず、他宗を排撃して戦闘的に布教した。
死にあたって日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持に後事を託し、この六老僧が身延山の祖廟を交替で管したが、やがて日向がもっぱらその任に当たった。
日昭は鎌倉浜の法華寺に拠り、日朗は池上の本門寺や鎌倉比企谷譜畝の妙本寺に拠って布教し、日常は下総の中山に法華経寺(現中山妙宗)を開いて伝道して、宗門の基礎をかためた。
日興は日向の専任に反対し、教義の上では本迹一致の説を批判して本迹勝劣の義を主張し、富士の大石寺(日蓮正宗の本山)や北山の本門寺(本門宗の本山の一・本門宗は今は日蓮宗に合併)を開いた。これが本宗分派の最初であり、その門流を興門派と称した。
日朗の弟子の日像は京都に妙顕寺を建て関西布教の端緒をつくり、同門の日印は越後に本成寺を創し、本迹勝劣を主張して法華宗(日陣が大成したので陣門流という)を開いた。
その他、本迹勝劣を説くものに日什(顕本法華宗と称したが、今は日蓮宗に合併。本山は妙満寺)や日隆(本門法華宗と称したが、今は法華宗と号し本門流という。本山は本能寺など。ただし妙蓮寺の系統のみ独立していまも本門法華宗と称する)、日真(本妙法華宗と称したが、今は法華宗と号し真門流という。本山本隆寺)の門流がある。室町時代には、関東では身延・池上・中山を中心に教勢が栄え、京都では21本山を数えるに至った。しかし天文5年(1536)天文法華の乱で叡山と争って亡び、のち日助らが16本寺を再興した。この頃から講学が盛んになり、江戸時代には飯高檀林、松ケ崎檀林、六条檀林など19檀林を数えるに至った。
織田信長の時、安土宗論に敗れて弾圧を受け、豊臣秀吉の大仏供養会に際しては、日奥が信者以外のものから財施を受けたり、またこれに法を施したりしてはならないという不受不施の説を唱えて物議をかもした。徳川秀忠の時にこの派は禁ぜられたがひそかに伝わり、明治9年(1876)に日蓮宗不受不施派(派祖日奥。本山は妙覚寺)、不受不施講門派(派祖日講。現在は日蓮講門宗と称する。本山は本覚寺)として公認された。
なお、不受不施に関連して、日明が悲田供養の説を立て、一時は公認されたがのちに禁じられた。この派を悲田派・新受派という。
江戸末期には、法華宗の系統から長松清風の本門仏立講(現本門仏立宗)が起こり、明治以後には国柱会・霊友会.立正佼成会・創価学会など民間の信仰団体を生んだ。