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=唯識説=
<big>vijñaptimātra-vāda</big> (S)

　仏教は、当初から唯心論的傾向の強い思想であるが、その傾向が極をきわめて、一つの特別の学派、すなわち瑜伽行派によってまとめられたものが大乗仏教の唯識説と呼ばれるものである。<br>
　この説が成立した要因の一つとしてヨーガ体験があげられる。『[[だいびばしゃろん|大毘婆沙論]]』などによれば、すでに[[ぶはぶっきょう|部派仏教]]の時代から「[[ゆがし|瑜伽師]]」とよばれ、ヨーガを好んで修した一群の人びとの存在が知られていたが、このような人びとの禅定体験すなわち「あらゆる事物は心が作りだした影像にすぎない」という体験が唯識説を生みだした根本原因であったと考えられる。<br>
　このほかの理由として、『[[けごんきょう|華厳経]]』にみられる「[[さんがいゆいしん|三界唯心]]」説の影響を受けたこと、[[はんにゃきょう|般若経]]・[[ちゅうがんは|中観派]]の空の思想を虚無主義的に解釈しようとする考えを是正する必要がおこったこと、さらには輪廻主体の追求のはてに[[あらやしき|アーラヤ識]]という根本識を発見したこと、などをあげることができる。<br>
　この説の一大特徴は、あらゆる存在を生みだす根本識としてのアーラヤ識を根元として、その上に[[まなしき|末那識]]（[[マナス]]）と[[ろくしき|六識]]とを位置せしめる八識説をとなえたことである。<br>
　アーラヤ識とは別名、一切[[しゅうじ|種子]]識と呼ばれるように、そのなかに過去の業の影響が種子として貯えられ、同時に現在・未来にわたって自己の心身さらには自然界を生みだす根源体である。唯識説は「唯だ識のみである」と説き、こころのほかに事物的存在を認めない。すなわち、こころが[[しょしゅ|所取]]（客観）と[[のうしゅ|能取]]（主観）とに二分化し、能取としてのこころ（[[けんぶん|見分]]）が、事物の姿に似て現われた所取としてのこころ（[[そうぶん|相分]]）をながめるという。換言すれば、こころがこころを見るという認識構造説にもとづいて、すべてはこころの現われにすぎず、自己および外界を実体視するところに苦しみと誤謬とが生ずると主張する。<br>
　このほか、こころのあり方、広くは存在のあり方を[[へんげしょしゅうしょう|遍計所執性]]・[[えたきしょう|依他起性]]・[[えんじょうじっしょう|円成実性]]との３つに分ける[[さんしょうせつ|三性説]]と、およびそれを否定的に表現した[[そうむしょう|相無性]]・[[しょうむしょう|生無性]]・[[しょうぎむしょう|勝義無性]]の[[さんむしょうせつ|三無性説]]も唯識説を構成する重要な思想である。<br>
　唯識説は識以外の存在を否定して[[ゆよいしきむきょう|唯識無境]]であると主張する。しかし、究極の境界すなわち[[しょうぎたい|勝義諦]]の世界からすれば、その識さえも存在しない識無境無の空の立場に立ち、[[はんにゃくう|般若の空]]の思想をそのままひきついでいる。ただし、ヨーガという実践行を通して悟りに達しようとする根本的姿勢から、修行の段階においては少なくともこころ、すなわち識の存在を認め、その識のあり方を修行によって汚れた状態から清らかな状態へと変革することをめざす。すなわち汚れた識を転じて清らかな智慧を得ること（[[てんじきとくち|転識得智]]）、換言すれば、アーラヤ識中のあらゆる汚れた種子を滅して、清浄な種子のみで満たすこと（[[てんね|転依]]）こそが唯識説の究極目的であるといえよう。

==インドでの展開==
　唯識説はインドにおいて３、４世紀頃におこり、[[みろく|弥勒]]（[[マイトレーヤ]]）・[[むちゃく|無著]]（[[アサンガ]]）・[[せしん|世親]]（[[ヴァスバンドゥ]]）という三大論師によってその思想は体系化された。特に世親の最後の著作『[[ゆいしきさんじゅうじゅ|唯識三十頌]]』は、わずか三十の偈のなかにそれまでの諸思想がたくみにまとめられ、さらには[[しきてんぺん|識転変]]という新たな思想が加えられた名著である。世親の没後、この『唯識三十頌』の内容解釈をめぐって意見の対立をみ、[[ゆがぎょうは|瑜伽行派]]はいくつかの派に分裂していった。人物としては[[げんじょう|玄奘]]の伝える十大論師すなわち親勝・火辨・[[とくえ|徳慧]]・[[あんね|安慧]]（[[スティラマティ]]）・難陀・浄月・[[ごほう|護法]]（[[ダルマパーラ]]）・勝友・最勝子・智月がおり、このほか[[ディグナーガ]]（[[じんな|陳那]]）・無性・[[かいけん|戒賢]]（[[シーラバドラ]]）・[[ほっしょう|法称]]（[[ダルマキールティ]]）などが重要である。<br>
　学派としては[[むそうゆいしきは|無相唯識派]]と[[うそうゆいしきは|有相唯識派]]との分裂が重要である。もともとインド哲学諸派において、事物を知覚する場合、外界に存在する事物の形相をこころのあり方とは関係なくそのまま認識するとみる考えと、外界の事物はこころのなかに生じた形相によって推量されるにすぎないとみる考えとが対立していた。前者を無相識論、後者を有相識論というが、瑜伽行派は「こころがこころを見る」という基本的立場から、以上の区分でいえば当然有相識論に属する。ところが、こころのなかの形相の存在性をめぐって瑜伽行派のなかでも対立がおこり、こころのなかの形相は非実在であり虚偽とみなす無相唯識派と、形相は一方的に否定されるべきものではなく実在すると考える有相唯識派とに分かれた。前者は弥勒から始まり、無著→世親→安慧→真諦と続く流れであり、後者はディグナーガに始まり、無性→護法→戒賢さらには中国の玄奘へ続く流れである。<br>
　また、認識作用への考察が深まるにつれてこころは、いくつの部分に分かれて認識を成立するのかという問題が提起され、分かれるこころの数をめぐって意見が対立した。古来から安難陳護一二三四といわれるように、安慧は一分説、難陀は二分説、陳那（ディグナーガ）は三分説、護法は四分説をそれぞれ主張したと伝えられる。こころの二分化はすでに弥勒などの論書において[[しょしゅ|所取]]（grāhya）・[のうしゅ|能取]]（grāhaka）という語で意図されていたが、ディグナーガの[[しょりょう|所量]]・[[のうりょう|能量]]・[[りょうか|量果]]の三分説を経て護法の四分説すなわち、認識は[[そうぶん|相分]]・[[けんぶん|見分]]・[[じしょうぶん|自証分]]・[[しょうじしょうぶん|証自証分]]の四つの部分の関係のうえに成立するという考えが成立した。

===仏教論理学===
　唯識説がインド哲学史において貢献した業績の一つは、論理学（すなわち[[いんみょう|因明]]）を発展させたことである。すでに弥勒・無著のときから論理学は考察の一つの対象であったが、ディグナーガが従来の「[[いんのさんそう|因の三相]]」に新たに「[[くくいん|九句因]]」という理論を加えた新因明を確立したことから、仏教論理学は急速に発展していった。前述した有相唯識派の人びとは、こころのなかの形相、とりわけ言葉を重んじ、言葉による認識ないし判断によって真理・真実に迫ろうとし、チベット文献のなかで論理追従派と称せられるように、主として論理学への従事に専念した。この傾向は１１世紀に活躍したジュニャーナシュリーミトラや[[ラトナキールティ]]まで及ぶが、しかしこのような唯識説の論理学への傾斜は、唯識説そのものの衰微を助成することとなった。

==中国での展開==
　唯識説の中国への紹介は５世紀はじめに[[どんむしん|曇無讖]]が『菩薩地持経』を、[[ぐなばつま|求那跋摩]]が『菩薩善戒経』を訳したことに始まる。しかし無著・世親の本格的な唯識説が伝来したのは、６世紀以後のことであり、その伝来は大きく次の３つのグループに分けられる。<br>
（1）北魏宣武帝の永平元年（508）に[[ろくなまだい|勒那摩提]]と[[ぼだいるし|菩提流支]]と[[ぶっだせんた|仏陀扇多]]が洛陽に来り、世親の『十地経論』と無著の『摂大乗論』とを訳出した。このうち『十地経論』には唯識説独自の[[ありやしき|阿梨耶識]]（＝アーラヤ識）というそれまで中国仏教には未知の思想が述べられていることから、訳出後、急速にこれに関する研究がさかんとなり、本論を所依の論書とする「[[じろんしゅう|地論宗]]」という宗派が成立した。その後この派は、阿梨耶識を無垢清浄の真識とみる南道派とおよび阿梨耶識を染汚生滅の妄識とみる北道派とに分裂した。このうち北道派はまもなく勢力を失い、南道派は六朝から隋にかけて栄えたが、隋末から唐初にかけて摂論宗あるいは[[けごんしゅう|華厳宗]]に吸収された。<br>
（2）梁の武帝に招かれて太清2年（548）に建業に来た[[しんだい|真諦]]はその後、動乱期の中国各地を放浪しながら多く翻訳事業を行なったが、特に彼が無著の『摂大乗論』を翻訳したことによって、教理的に組織体系化された唯識説が中国の人びとに知られるようになり、この結果、この『摂大乗論』を所依とする「[[しょうろんしゅう|摂論宗]]」が成立した。この派の教説の特徴として、阿梨耶識を真妄和合識とみなし、さらに第八阿梨耶識のほかに純浄で無垢なる[[あまらしき|阿摩羅識]]と呼ばれる第九識をたてたことがあげられる。この派は地論宗の北道派を吸収して一時栄えたが、唐代に入って法相宗の興隆によって急速に衰退していった。<br>
（3）中国における最大の唯識学派は、玄奘およびその弟子の[[じおんだいし|慈恩大師]][[きき|基]]によって創立された、「[[ほっそうしゅう|法相宗]]」である。玄奘は１９年にもわたるインドへの求法の旅を終えて貞観１９年（645）に長安に帰国したのち、インドから持ちきたった多くの経論の翻訳事業に専念し、入寂までの１９年間に74部1335巻にも及ぶ翻訳を完成したといわれる。彼は、小乗、大乗にわたる多くの経論を訳出したが、彼の最大の目的は、師の戒賢を通して習得した護法の唯識説を中国に紹介することであった。その集大成ともいえるのが『成唯識論』の翻訳であった。この論書は世親の『唯識三十頌』に対する１０人の注釈家の説を合糅したものであるが、そのなかでも、特に護法の説が正統説として宣揚されている。玄奘の弟子基は、『成唯識論』に対する注釈書である『述記』『枢要』を作成し、玄奘によって伝えられた唯識説を一つの体系としてまとめあげ、法相宗の開祖とされている。その後、[[えしょう|慧沼]]が『了義灯』を、さらにその弟子の[[ちしゅう|智周]]が『演秘』を著わし、護法の唯識説に対する研究は一段と深められ、法相宗は唐代において一大隆盛をみるにいたった。