げ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
目次
偈
gāthā गाथा (S)
「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌」という。
仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。
インドの伽陀の漢訳
仏典に最も多く出てくる16音節(8音節1句を2句)2行の32音節よりなる首盧迦(しゅるか)(śloka श्लोक)をいう。漢訳はこの一偈を4字または5字の4句に訳すことが多い。狭義の偈の意味では、前に散文がなく、韻文のみの教説である孤起偈(gāthā गाथा)と、散文の教説につづいて重ねて韻文で散文の内容を説く重頌偈(geya गेय)がある。
漢訳の偈は、外見は漢詩と同じだが、韻をふむことは少なく中国の詩の体をなしていない。
中国日本の偈
禅僧などが悟境を韻文の体裁で述べたものを「偈」と呼ぶ。中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される「法語」には破格のものも多い。
僧の作る偈は、抹香くさく、普通の詩の体をなさない韻文としての異様さを批判する人もいる。
悔
懺悔に詳しい。
礙 碍
pratigha: pratighāta: prati-√han (S)
さまたげること。立体的な大きさや形を持ち、そこに他のものが入り込むのをさまたげること、あるいはそのようなもの。
たとえば一方の手が他方の手をさまたげる、あるいは、ある石が他の石をさまたげるような場合をいう。
cf.有対
- 色蘊に摂する十界のみ有対なり。対とは礙の義なり。
- 若しくは、対あるを礙と名づく。若しくは、方分あるを礙と名づく。
pratigha (S)
主に感覚的な認識における制約的関係をいい、一つの認識作用(識)あるいは一つの感覚器官(根)がその認識対象(境界)と制約的関係にあることをいう。たとえば、魚の眼は水のなかでは対象と関係するが、陸上では関係しないことをいう。
cf.有対
- 有る眼は水に於て礙あるも、陸に於て礙あるに非ず、魚などの眼の如し。
vighna (S)
さまたげる、妨害すること。
曇鸞
- 問うていわく、もし無礙光如来の光明無量にして、十方の国土を照すに障礙するところなしと言わば、この間の衆生、なにをもってか光照を蒙らざる。光照さざるところあらば、豈に礙あるにあらずや。
- 答えていわく、礙は衆生に属す。光の礙にはあらざるなり。たとえば、日光四天下にあまれけれども盲者は見ず。日光のあまねからざるにはあらざるがごとし。〔『浄土論』帰敬偈の釈〕
- われ無始より三界にめぐりて、虚妄のわだちのために回転せらる。一念一時につくるところの業、足を六道に繋ぎ、三塗に滞る。〔『讃阿弥陀仏偈』、T47, 424a〕