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ししゅえんぎ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

四種縁起

 華巌宗の教理は縁起を主としている。これから具の一字弥今宗を顕わすとは天台の事である。華厳宗はこれに対して起の一字益当家を振うということができる。それは華厳宗の至極は法界繰起にあるからである。これによって今五教についてこれを分別すると、それぞれ一箇の縁起がある。但だ頓教を除く。
 業感縁起は小乗教である。頼耶縁起は大乗始教である。如来蔵縁起は大乗終教である。法界縁起は圓教である。これによって独り頓教を除いて、無相離言の宗であって、さらに教相に渉らない教であるからである。

業感縁起

 是れ惑業苦の三道展転して因果相続するをいう。惑とは心の病であり、業とは身の悪である。苦とは生死の果報なり。
 心の病を縁として身の悪を造り、身の悪を因として生死の果を感ずる、之を業感縁起と称する。
 例へば人があって、瞋恚を起すのは惑である。これより終に刀を引いて他人を殺すことになるのが業である。この業は自ら未来の苦果を牽引するから、これ一具の縁である。これによって未来の苦果を感じおわれば、その苦果の身において更に惑を起し業を造って他世の苦果を招く、これも亦一具の縁起である。
 このように惑業苦の三道展転してたがいに因となり果となって、輸還玉のようなもの、生死輪廻の相であるとする。故にこれを遡れば過去永永更に生の始なく、これを趁へば未来漫漫更に死の終なきなり。佛教の説く三世因果の相はおおかたこのようなものである。
 これを詳しく述べたものが十二因縁観である。このように論じてくれば、因果の関係を知ことができるが、この惑業苦の三法がどこから生じたのか説明のしようがない。これを説明しようとすれば、次の頼耶縁起の興る理由となる。

頼耶縁起

 頼耶とは阿頼耶の略、訳して蔵という。種子を蔵するという意味である。微細不可知の一大蔵識があって、一有情の根本依である。有情を差排する万法はみなこれ蔵識に執持する種子から現行するものであるから、これを種子生現行という。このように現行した万法は新たにその種子を蔵識に薫ずるから、これを現行薫種子という。よって三法がえられる。
 一に本有種子。これは蔵識に執持させられて縁に遇えば現行しようとする種子である。
 二に現行法。これは本有種子の縁に遇って現行した法である。
 三に新薫種子。これは現行法によって新たに薫じられた種子である。
 この三法は展転して同時に因果をなす。これは秤が一時に高低するようなものである。これを

 種子現行を生じ、現行種子を薫ず、三法展転して因果同時

という。これ一具の縁起である。こうして後時さらに縁に遇えば種子より現行を生じ、現行より種子を薫じて、更に一具の縁起をつくる。このように展転して因果無究である。これを頼耶縁起の相である。
 しかしながら、ここでいう縁は別の法ではない。かえって頼耶より現行した諸法である。現行した諸法を縁として種子を鼓動して、惑を生じ業を造り果を招くのである。であれば三世因果の相たる惑業苦の三道は、ともに吾一心より縁起したのだと知るのである。これは頼耶縁起の功ではあるが、さらに一歩進んで頼耶心かえって何から生じたのかといえば、答えることができない。もし前七識から生じたといえば、さらに頼耶と前七識と共にどこから生じたのかと詰められるだろう。これが頼耶縁起についで如来蔵縁起の興る所以である。

如来蔵縁起

 如来蔵縁起は、真如縁起ともいう。一味平等の真如があって、無始無終不増不減の実体である者、染浄の縁に駆られて種々の法を生じるのをいう。即ちその実体に真如門、生滅門の二義がある。真如門の故には一味平等の体ではあるが、生滅門の故には染縁に由って六道を現わし、浄縁に由って四聖が出る。これにおいて三法がある。一に真如の体。二に生滅の相。三に因縁の用。即ち真如の体を因として、因縁の用を縁とし、以て生滅の相が生じる。このようにその生滅の果、即ち現行の頼耶識である。
 このようにみていくと、頼耶識は如来蔵によって生じたものであることが知られる。とすれば如来蔵はさらに何より生ずるのかと詰問してはならない。何となれば如来蔵は体真如なのだから。さらに生ずる所があれば眞如ではなくなる。これによってかくの如く一切万法は一如来蔵より変造したものであるから、その万法は互いに融通して一大縁起となっている。これが法界縁起である。

法界縁起

 法界の事法は有為も無為も、色心も依正も、過去も未来も、ことごとく一大縁起を成し、更に単立するがないことをいう。これによって一法を以て一切法を成じ、一切法を以て一法を起す。別の言葉で言えば、万有は万有に縁って起ると云ふ者これ法界縁起の義である。これを詳釈したものが六相十玄の法である。
 縁起の義理はここに窮極する。これは華厳宗の特色である。その縁起の根本としている点は「一多相即」にある。
 ここに銭貨十銭あって、この十銭は一銭から成ったものである、何となれば本来自性の十はなく、十は一を積んで成り得たる縁成の法であって、一がなければ即ち十も亦なし。これに反して一銭は十銭に由って成っていることを知る、何となれば本來自性の一があるわけではなく、一は十に対して成り得たる縁成の法であって、十がなければ一もまたないからである。しかれば一を挙げれば、一はよく十を造る勢力をもっており、十は即ち一の中の十となる。また十を挙げれば十は能く一を造る勢力を持っており、一は即ち十中の一となる。このように十は一中の十となり、一は十中の一となるものを一多相入の義と称す、これ諸法の勢力について論じている。
 このように十は一中の十となれば、一の体は即ち十にして、一の外に更に十なし、依て一を挙げて体とすれば、十は即ち虚となる。また一は十中の一なれば、十の体は即ち一にして、十の外に更に一なし、依て十を挙げて体とすれば一は即ち虚となる。これ一を実とすれば十は虚となり、十を実とすれば一は虚となり、一十相望すれば、常に一虚一貫、あたかも物体と虚空との如く、更 に離隔障礙する所無し。これを一多相即の義と称す、これ諸法の体について論ずるなり。此の如く勢力について相入を論じ、自体について相即を論じ、法界万有の法ことごとく相即相入するというのは、縁起の妙義であると知るべきであろう。この理に立って法界の事事無礙を極説するを十玄縁起という。玄門に詳しい。