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にくう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

二空

 生空と法空。人空と法空。我空と法空。
 生空(人空・我空)とは生命的存在が実体として存在しないこと。法空とは生命的存在を構成する諸要素は存在しないこと。生空を人空・我空ということがあるが、人空といえば五趣のなかの人のみに限られ、我空といえば我は法にも通じるから、いずれの表現も問題があり、生空というのが適切であると『述記』や『演秘』で解釈されている〔述記1本、T43-234c〕〔演秘1本、T43-816a〕。
 二空のなか、大乗は生空と法空の二つの空をさとるから、生空のみをさとる小乗より勝れていると主張する。

 法無我所顕の真如を理体と名づく。生空所顕の辺は是れ真如の上の差別の義なり。二乗は唯だ生空の差別を知り、法空の理体を証せず。

我法倶空

 大乗仏教徒の禅定のうちなる覚体験に根ざしてのことだったと見られる。観仏体験といってもよい。大乗仏教徒自身の覚りが、このことを説かしめた。だからといって、かれらがその理論的説明を放棄したというわけではない。我・法ともの空を明らかにするために、かれらは縁起や唯心やさまざまの言葉を綿密に語った。その背景には、かれらの身をもっての覚体験(空の体証)があったのだと思われる。
 ここでは、我法倶空を語ることが、実は上述のような大悲の連環という、大乗仏教に固有の特徴的な立場を可能にしていることについて、触れておきたい。
 我のみでなく法も空・無自性であるということは、この我々の世界のどんなものも、実は真に生まれたのでもないし、滅したのでもない、ということになる。すなわち、本来、生滅も去来もなく、したがって、本来、寂静であり、本来、涅槃に入っているということである。つまり、我々の生死の世界も、実は本来、浬渠の世界そのものだったのである。
 逆にいえば我々は、修行して覚りを開いたのち、ことさら特別な涅槃の世界に入らなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住処涅槃という世界がある。
 この無住処涅槃に入ることによって、永遠の利他行も可能とされることになる。

 また、我法倶空を了解するということは、我執(我への執著)のみでなく、法執(法への執著)をも断つということである。我執を断つのみだとすると、次に生まれようとする意志が断たれるので、静止的な涅槃に入り込むことになる。しかし法執を断つことによって、世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に悟らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。
 そして問題の核心を見抜き、自在に説法したり方便を施したり、多彩な活動がなし得ることになる。法執をも断つことによって、真の自由を確立し、おのずからの願行を完成させていくのである。
 こうして、我法倶空こそが大乗仏教を支えることが知られる。そこでは空とは、悲用(大悲のはたらき)が完全に活動し得る原理そのものなのであった。空の実相が、仏から人へと無限にはたらきかける世界を支えているのである。