もんしんぎそう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
聞信義相
題意
本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある、ほかに信なきことを明らかにする。その聞と信の義を窺い、真宗は聞即信であって聞のほかに信なきことを明らかにする。
出拠
本願成就文の「聞其名号信心歓書」とある。
釈名
「聞」とは、不如実の聞に簡び、如実の聞を指す。「信」とは願力回向の信楽で、決定無疑をいう
義相
第二十願の「聞我名号係念我国」という聞は、名号を聞くといっても、なお名号の真実の義に達しない不如実の聞である。これに対して本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とある聞は、所聞の名号の其実の義に達した如実の聞である。
その名号の義とは、信文類に本願成就丈の聞其名号を釈して「仏願の生起本未を聞いて」等と言われる「仏願の生起本末」がこれである。「仏願の生起」とは、本願は誰のために起こされたかということで、それは迷いの衆生のためであり、この衆生の性得すなわち機実をいえば、無有出雛之縁である。「本」とは困本の義で法蔵困位の願行であり、「末」とは果末の義で本願成就の果である。よって、仏願の生起本末とは、無有出難の機のために、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ、遂に十劫の古に正覚を成就して常に衆生を招喚したもうのであって、これが名号の義である。
この名号の義を聞いて、その意義に契って領得するのが第十八願の聞である。すなわち機実を知る故に自力の功なきを知り、自力の功なきを知る故に自力、すなわち己のはからいを用いようとする心を捨て離れる。
この無有出離之縁の機を救うために本願を成就して現に招喚したもう法実を知る故に願力に乗託する。
よって如実の聞の相は捨機託法 捨自帰他である。
故に聞を釈して「無有疑心」という。
無有疑心は信楽の義であるから聞即信というのである。
聞期信というについて、二つの所顕がある。 一つには信をもって如実の聞を顕わす。信文類に「言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心是日聞也。」と釈し、「二念多念文意」に「きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。」というのがそれで、不如実の聞に簡び、第十八願の聞は聞くままが信となる如実の聞であるという義を顕わす。
二つには聞く以て他力の信を顕わす。信文類に、「言信心者、則本願力廻向之信心也。」と釈し、「一念多念文意」に、「また、きくといふは信心をあらわす御のりなり。」というのがそれで、不如実の信に簡び、第十八願の信は聞くより外になく、名号によって起こさしめられる他力回施の信であるという義を顕わすのである。
結び
本願成就文の聞は聞即信であって、無有疑心を聞の義とする。
聞のほかに信はなく、所聞の名号より起こさしめられる信であるから、おのずから他力回施の信なることが顕われるのである。