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がんぎょうぐそく

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

願行具足

 とを具足するという意味。善導の〔『観経疏』1〕に、

 経のなかに説きたまふがごとし。ただその行のみあるは、行すなはち孤にしてまた至るところなし。ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。このゆゑにいまこの『論』のなかには、ただ「発願」といひて、行ありと論ぜず。このゆゑにいまだすなはち生ずることを得ず。遠生のために因となるといふは、その義実なり。
 問ひていはく、願の意いかんぞ、すなはち生ぜずといふ。
 答へていはく、他の説きて、「西方は快楽不可思議なり」といふを聞きて、すなはち願をなしていはく、「われもまた願はくは生ぜん」と。この語をいひをはりてさらに相続せず。ゆゑに願と名づく。
 いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。
 「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。〔序分義 pp.324-5〕

と云える。浄土各派に於て往生の法義を談ずるに異同あり。
 鎮西派に於ては、三心は念佛諸行に通じ、共に報土往生を得と立て、願とは總じて三心、別しては回向發願心を指し、行とは念佛及び諸行に通ず、願生彼國の願と念佛諸行の行を具足すれば報土往生を得、南無阿彌陀佛の行體に願行具足の義あるが故に、仮ひ別に廻向を用ひざるも往生の因となる義ありと説く。
 眞宗では南無阿彌陀佛の法體に願行具足するが故に、行者が信の一念に、他力の回向によりて此の名號を得る時、機に於ても亦願行具足の義ありと立つと雖も、而も自ら三心を發し、念佛を称して以て往生を期するには非ずと云へり。