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ぎょういつねんぎ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

行一念義

題意

 称名の初一声に大利を得るという義について窺い、それは諸行の法に対して、勝の法なることを顕わすものである旨を明らかにする。

出拠

 行文類の行一念釈に、

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。     〔教行信証 p.187〕

本願の法が至易最「言行之念者、謂就称名偏数、顕開選択易行至極。」と示されてあり、その本は『大経』の弥勒付属の文に、

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。     〔大経 p.81〕

「共有得聞彼仏名号歓喜踊躍、乃至一念。当知、此人為得大利、則是具足無上功徳。」とあるものである。

釈名

 「行」とは造作・進趣の義である。名号には衆生の成仏すぺき万行造作の徳を具し、衆生を仏果に進趣せしむる力用があるから、これを行という。
 「一」とは初一の義で、第二念以後に対する。「念」とは称念の義である。よって、「行一念」とは、法体名号が機に領受せられて(信)、それがロ業に出た最初の一声の念仏をいう。

義相

 名号は衆生の心に届いて信となり、口業にあらわれて相続の称名となる。その信初発の時に往因円満する義を明らかにされるのが信一念義であり、称名の初一声のところで法体の徳を示されるのが行一念義である。
 行の一念については、『大経』の弥勤付属の文に、名号を聞信して称名する最初の一声に無上大利を具すると説かれている。これは「大経」の法が他の教法に対して勝れていることを、行々相対して示されるので、諸行の法は己の行功をたのむから多く積むほど功徳が増すが、第十八願の念仏は、功は法体にあるゆえ、多念をまたず初一声に既に無上大利を具するという。宗祖はその意味を行一念釈に示して、行の一念に大利を得るというのは、第十八願の法が衆生の微作をもからぬ他力至極の法なることを、称名の初一声のところで顕わすのである、と明らかにせられたのである。
 行の一念は信の一念よりも後であって、往生成仏の因は信一念の時に満足する。また、行の一念に大利を具するというも、能称の功を認めてこれをいうのではない。なお、右に述ぺたのは偏数の釈であるが、宗祖はまた行相の釈をも示されてある。行文類・行一念釈に、『散善義』(取意)の「専心専念」を釈して、云専念者、即一行、形無二行也。等と示されてあるのがこれである。その場合には、一念の「一」は専一無二の義、「念」は称念の義で、弥陀仏名を称念するほかに余行をまじえないという弘願念仏の行相をあらわすのである。
 『大経』の弥勅付属の一念は、「乃至」を冠する一念であるから、初一声とする偏数の釈がその当義である。

結び

 行一念得大利の義は、聖道や要門の法に対して第十八願の法が至極の易行なることを、称名の初一声のところで顕わすもので、能称の功を認めるのではない。