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ぎろん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

議論への批判

 ゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』のなかで、ディスカッションであれディベートであれ、ともあれ「議論」というものがいかに愚かであり、空しく、不毛であるかを、きわめて強い口調で語っている。

878 (世の単者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異った執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。――『このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である』と。
879 かれらはこのように異った執見をいだいて論争し、『論敵は愚者であって、真理に達した人ではない』と言う。これらの人々はみな冒日分こそ真理に達した人である』と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは『これは真実である』とは説かない。かれらは各目の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を『愚者』であると決めつけるのである。
883 或る人々が『真理である、真実である』と言うところのその(見解)をぱ、他の人々が『虚偽である、虚妄である』と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争をする。何故に諸々の念坦の人〉は同一の事を語らないのであろうか?
884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 真理は一つである。しかし、真理をどのようにしてどう知り、それをどう表現するかは、真理を知った人それぞれに固有のものがある。真理を本当に知った人は、それだけで十分であり、「他人の真理」にとやかく口出しをすることはない。
 ゴータマ・ブッダは、観察、考察の対象を、みずからの実存にまつわる経験的な事実の承に限定している。ゴータマ・ブッダにしてみれば、実存的に知られた真理は、あくまでもその実存にとってのただ一つの真理であり、他人からとやかくいわれて反駁しなければならないようなものではないし、別の人が真理と確信して語っていることを論駁しなければならないようなものでもない。真理は一つであって、第二のものは存在しないという確信に安住し、真理を知った人は争うことをしないのである、という意味である。

論争へ導く要因

863 争闘と争論と悲しみと憂いと慳<ものおし>みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。
865 世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。
867 世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
868 怒りと虚言と疑惑、――これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。
870 快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。
872 名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。
874 ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなぎ者でもなく、想いを消滅した者でもない。――このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。
876 この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。またかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに〈最上の清浄の境地がある〉と、巧みに語っている。
877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある聖者は種々なる変化的生存を受けることがない。