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ししょうじ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

ししょうほうから転送)

四摂事

catur-saṃgraha-vastu (S)、「四摂法」「四摂」「四法」「四事」とも呼ばれる。

 「人心を収攬する四種の行為」のことで、大乗仏教でも部派仏教でも同じように用いる。菩薩が人々を摂め、悟道へ導いてゆく方法として説かれた四種の方法のことで布施〈ふせ、dāna〉愛語〈あいご、priya-vāditā〉利行〈りぎょう、artha-caryā〉同事〈どうじ、samānārthatā〉の4である。

 この四種を摂〈saṃgraha〉というのは、菩薩がこれらの四種の方法を用いて、人々の意をむかえ、情に投じて、これらの人々を誘引して悟りの世界へと入らしめるという点でいわれる。いわば、人々に人々の欲するものをあたえ、やさしいことばをかけ、正しい道にみちびき、いっしょになって目的を達成してゆくことである。

布施

 布施とは恵施〈えせ〉ともいわれ、「めぐみほどこす」ことである。この場合の布施は波羅蜜行としての布施の意を根本にはもちながら、「ほどこし、あたえる」ことに中心があるので、自己の財物を他に施しあたえることであり、それによって人々を仏道に導き入れるので、布施摂事といわれるのである。

愛語

 愛語とは「やさしいことば」「美しいことば」の意味で、人々の好む「したしげな」ことばで相手に話しかけ、その人を正しい道に導くことであり、これを愛語摂事という。

利行

 利行とは「利人」とも「利益」ともいわれるもので、他人に正しい行ないを勧めることであり、また自分の正しい行ないによって人々に利益をあたえることであり、利行摂事といわれる。

同事

 同事とは「同利」「同行」「等行」ともいわれ、同とは相手に同ずること、ともに生活すること、苦楽をともにすることを意味する。したがって、同事とは相手の立場に立って、物を考え、行動し、つねにいっしょになって禍福をわかち合うような生活をすることによって、人々を仏道へ導くことで同事摂事といわれる。


 以上の四法は、いずれも、それぞれが、人々を仏道に導き入れる摂法であることはいうまでもない、が、これを四種次第して、布施は随摂方便、愛語は能摂方便、利行は令入方便、同事は随転方便であるとする解釈もある。
 すなわち、布施によって人々を利益することによって正法に耳を傾ける動機をつくり、みすがら正しい行ないをするようにしようとの思いを引きおこすことができるから、この布施は摂をやがてなしうるようになる方便行であるとして随摂方便という。
 次に、愛語は正しく和顔愛語して正教を聞かしめ、正理を説き聞かすから、これを能く人々を摂する方便として、能摂方便という。次に利行とは正しく人々に利益を得さしめるのであるから、方便に入らしめるという点で令入方便、同事はいっしょになって、ともともに正しい行を行じ、正道に入り、随時に悟りへと転向するというので随転方便というのである。

 以上の四摂事は現在でも、人々を教育してゆくため、また人心収攬の方法として考慮すべきものをもっているといえるであろう。人々にものを与えること、これはけっしてごきげんとりではなく、人々の生活の安定を考えることは、いずれの場合でもたいせつである。それこそがすべての基盤であることを思わねばならない。

言葉の問題

 人間のことばはそれによって人格が形成されるとともに、ことばによって人々を納得せしめることができるのである。

 愛語に心がけることが人間の人格形成にも社会の平和にもほんとうにたいせつであることを知らねばならない。
 利行はいうまでもない。利を無視することはすべてをぶちこわすものである。ただ何か本当の利であるかを正しく見きわめねばならない。
 最後に同事とは、お互いが常に相手の立場に立ち、相手の身になって考えること、これこそ人間社会の本当の姿であろう。もしお互いが相手の身になって考え行動するならば、本当に平和な社会が実現でき、お互いが幸福になれることは明らかである。ここでもまた、何か相手の考えであるか、立場であるかを正しく知ることがたいせつである。
 しかし、ここに困難さがある。その困難さの自覚にこそ、結局、相手はほんとうにわかることのできないもの、お互いは孤独であるとの深い人間的自覚があらわれるのであり、このお互いの孤独さ、人間の淋しさの自覚が、お互いのいたわりとなってくるので、ここに人間の宗教的生きかたが生まれるのである。