しゅうきょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
宗教
ラテン語のrelegere(再読する)、またはreligare(つなぐ)に由来するとされている。
日本語の「宗教」は古くから漢訳仏典にあったものを、明治にreligionの公式訳語として採用して以来広まったもの。
一般的にいえば、宗教とは、人と自分の神聖とみなすものとの関係をさし、神godはその人格的または超人間的な象徴にすぎない。この「神聖」という概念を提出したのは R.オットーである(1917)。しかし何を聖とするか、またその象徴の範囲をどこにおくかで定義の仕方は種々あり、信念を重視するシュライエルマッハーの「絶対的依存感情」、E. B.タイラーの「霊的存在への信念」、またR. R.マレットのマナの研究による超自然的・神秘的能力に対する畏敬、またはP.ラディンやE.デュルケムの社会的団結力のシンボルとしての価値を重視する見方などがある。
しかし、宗教は、単に個人の宗教感情でも社会的・文化的産物でもなく、その双方を基に形成される人間の行為として成立しているもので、全人間的な把握を必要とする。未開社会では、単に神話やマナとして存在していることもあるが、文化の展開につれ、教義や儀式が体系化されている。
仏教
古い経典の中に説かれている崇拝の対象はいろいろであるが、やがて「仏」と「法」と「サンガ」との3者にまとめる傾向が圧倒的に有力となった。アショーカ王のカルカッタ・バイラート詔勅では、ブッダとダンマ(=ダルマ)とサンガとに尊敬と信心とを捧げているから、そのときまでには、この三者の崇拝が定着していたにちがいない。
パーリ文の聖典の散文部分では、異教徒が釈尊に帰依するとき、次のような定型句で信仰を表明している。
すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは「眼ある人びとは色を見るであろう」といって、暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。ですから、わたくしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また、真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以後、命の続く限り帰依いたします。〔Suttanipāta 142〕
この後、『スッタニパータ』(222〜238詩)の「宝」(ラタナ・スッタ Ratana-sutta「宝経」)という経では、仏・法・僧をラタナ(宝)と呼んでいる。こういう径路をへて、三宝の観念が確立したのであった。
呼称
「宗」のサンスクリット原語はシッダーンタ siddhānta またはシッダーンタ・ナヤ siddhānta-naya である。それは概念化を超えたものである。それは、自分が直観的に知り得るものなのである。それは鈴木大拙博士はリアリゼーション realization と訳した。略していうと、それはプラティヤートマ pratyātma(鈴木博士の訳語では、セルフ・アテインメント self-attainment)と称せられるが、それは内的直観(インナー・インチュィション inner intuition)とでも訳され得るであろう。この場合には、仏教でいうシッダーンタ siddhānta という術語は、ヒンドゥ教の哲学で考えるシッダーンタ siddhānta(定説)とは非常に異なったものである。
「教」のサンスクリット原語は、デーシャナーdeśanā またはシャーサナ śāsana、またはデーシャナー・ナヤ deśanā-naya である。
こういうわけで、この二つの概念は、先の『ランカーヴァターラ・スートラ(楞伽経)』のうちには、次のように説明されている(南条本、127、148ページ)。