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そうみん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

僧旻

 7世紀の留学僧。新漢人日文(いまきのあやひとにちぶん)、旻法師などと呼ばれた。

 608年(推古16)小野妹子(おののいもこ)に従って隋に渡り、632年(舒明4)遣唐使犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)とともに帰朝した。645年(大化1)大化改新の新政府発足にあたり高向玄理(たかむこのくろまろ)とともに国博士(くにはかせ)に任ぜられ、また同年十師の1人となった。

 吉凶を判断する能力を有し、流星の出現や白雉の献上に際してその解釈を呈した。653年(白雉4)病に伏すと孝徳天皇は自ら阿曇寺(あづみでら)に幸して彼を見舞い、その死に臨んで弔使を遣わして賻物をおくった。皇祖母尊(すめみおやのみこと)(皇極上皇)や皇太子中大兄皇子(なかのおおえのみこ)もまた使を遣わして喪を弔い、多くの仏菩薩の像を造って川原寺(かわらでら)(または山田寺)に安置した。

注意 同じ「僧旻」という梁の学僧がいるので注意が必要。