(1778-1826) 本願寺19代。文如の次男。童名は孟丸、諱は光摂、諡は信明院。寛政11年(1799)文如の示寂により22歳で継職した。
文化3年(1806)、『御裁断申明書』『御裁断御書』を発布して、三業惑乱に教義上の決着をつけた。 文化8年(1811)、およそ10年をかけた御影堂の修復事業を完遂し、親鸞550回忌を勤修した。
その他、絵画に関する造詣が深く、吉村孝敬に師事し、碧山または不捨と号した。文政9年、49歳で示寂した。