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りゅうぎぶん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

立義分

 問題の所在。一つの論書の大宗、大綱。これを提起するから立という。

 ここから、立義は「総論」に当たる。〔起信論 T32-575b〕

起信論 立義分 釈

 すでに本論を著わす理由を示したので、つぎに本論における問題の所在を示すことにしよう。
 本論の主題は大乗の教えの真実を説くことであるが、この大乗は、要約すれば、つぎの二覩の観点から考察することができる。第一に、大乗の当体(「法」) とは何であるか。第二に、それはいかなる義理(「義」)を有することによって大乗と名づけられるのか。
 ここに言うところの大乗の当体とは、現実における一切の衆生の心(「衆生心」) を指して言っているに他ならない。一切の世間の法と出世間の法はことごとくこの衆生心の中に包摂されているのであって、われわれはこの心にもとづいて大乗の義理を明らかにすることができる。それは何故であろうか。この心のあるがままの真実のすがた(「心真如相」) は、大乗の自体をありのままにずばりと示す(「即示」) ものであり、また、この心の現実にさまざまに展開しつつあるすがた(「心生滅因縁相」) も、われわれがそれを徹底的に尋求してゆけば、その世界もまたそのままが大乗そのものの自体と、その属性と、そのはたらきとを示すことができるもの(「能示」)だからである。
 つぎに、衆生心は何故に大乗の当体たりうるのか。それは次の三種の大乗たるにふさわしい義理を所有するからである。第一に、衆生心の自体には、あらゆる存在のまことのすがた(「真如」) があらわになっており、それはさとりに到達せる覚者の位にあっても、あるいは迷いの生存にあっても、常に平等であり、さとりによって増加することもなければ、迷いによって減少することもないからである(「体大」)。第二に、衆生心は本来、すでにさとりの完成に到達した覚者のそれとまったく同等の数かぎりないすぐれた性質、功徳を具有しているからである(「相大」)。この点によって、それは「如来蔵」であるとも言われる。第三に、衆生心のはたらきは、よく一切の世間と出世間における善の原因と結果とを生ぜしめるからである(「用大」)。
 過去の一切の仏たちは、この大乗の法( =衆生心) によって悟りの完成に到達したのであり、また未来の仏である一切のボサツたちも、この法によってさとりの完成(「如来地」)に到達するのである。