ろくじんずう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
六神通
三明に神足通、他心通、天耳通の3つを加える。
神通はabhijñā、abhiññāの訳語であり、原語の意味は「すぐれた智慧」である。ところが、中国では、この神通について、「神」は不測の義であり、天心に名づけるといい、「通」とは無碍の義であり、それは慧性に名づけるといっている。これらの解釈よりすれば神通とは一般日常的な人間の能力をこえ、日常的人間には考え及ばないような自由自在な活動能力を意味するというべきである。
ところが、よく神通力とか通力とかいえば、人間の能力を超越した奇蹟を行なうことのできる能力のように理解されているが、この点については前の解釈に注意する必要がある。
たとえば、インドでいう、梵天や自在天が宇宙のできごとや人生について、自らの意のままに支配する、というような超人間的能力や、キリスト教でいう奇蹟などとは全く趣を異にする。仏教でいう神通とは、『倶舎論』に「智証通」〈jñāna-sākṣātkriyā-abhijñā〉というように「智によって直接に証得された通力」の意味である。『瑜伽師地論』で「作通」、『大毘婆沙論』で「智通」と訳出されているのも、みなこの意味である。日常的人間には測りしられないが、超人間的であるのではなく、すぐれた智慧に基礎付けられた真に自由な人間の行動能力をいうとみるべきである。つまり、何ものにもとらわれることのない柔らかな精神の諸活動ともいえるであろう。
もっとも、古い経典の中には、釈尊が舟や筏を用いないで河を渡ったり、時によっては他人の姿をみえないようにしたりしたというような、いかにも不思議な行動をされたことが説かれているが、これらは後の信者たちの眼にうつった覚者の偉大さを述べたものと考えるべきである。
さて、前にかかげた六通をいま『倶舎論』27の説明にしたがってみよう。まず、六通とは、次のように次第して示される。
- . 神境智証通〈じんきょうちしょうつう〉ṛiddhi-viṣaya-jñā
- . 天眼智証通〈てんげん―〉divya-cakṣuḥー
- . 天耳智証通〈てんにー〉divyaśrotraー
- . 他心智証通〈たしんー〉para-cetaḥ-paryāyaー
- . 宿住随念智証通〈しゅくじゅうずいねんー〉pūrva-nivāsa=anusmṛtiー
- . 漏尽智証通〈ろじんー〉āsrava-kṣayaー
神境智証通
まず、第一の神境智証通は神足通、身如意通などともいわれる。リッドゥヒ〈ṛiddhi〉は「勝れた超自然的力」の意味であるが、それが神、神足、如意などといわれたものである。つまり、自らの意のままに自由に物事に処し、行動できる能力である。『倶舎論』には、この神足のよりどころは等持であるという。すなわち、三昧〔精神集中による無心の状態〕を根本とする自在の能力である。ところで、このような自在力が行動のうえで、どのようにらわれるかというと、それに3種があるという。すなわち、運身〈gamana〉と勝解〈adhimokṣa〉と意勢〈mano-java〉の3である。
第一の運身とは「空に乗りてゆくこと、なおし飛鳥のごときをいう」と説明されるから、自らの意にまかせて空中を飛行することができるということである。
次に勝解とは「極遠方に近の思惟をなせば、すなわち、よく速かに至るをいう」と説明される。これは自らの意の思うままに活動でき、遠近という実際の距離を無視して、自らの思いのままに行動できることをいう。
次に意勢とは「極遠の方を心をあげて縁ずるとき、身はすなわち能く至るをいう。この勢い意の如くなるをもって、意勢の名をうるなり」といわれている。すなわち、遠方のものを認識の対象として認識するならば、身体は既にそこにゆく、その意の勢いの強いところで意勢といったというのである。
この神足通について『大無量寿経』の四十八願(魏訳)中では第九願として述べ、梵本は第五願として述べるが、そこでは一念の頃〈あいだ〉に百千那由他の諸仏の国をすぎることができるといい、『平等覚経』では第八願として「我が国の人民、悉く飛ぱざれば」とあって、自在なる飛行で解釈している。さきの『倶舎論』の運身に当たると思われる。
天眼智証通
次に、第二の天眼智証通とは、死生智証通、見死生智作証通ともよばれるように、人々の未来を予知する智慧をいう。天眼の天は、眼が天界に属することをいうといわれ、それは四禅より生じた浄色でできていると説明されるが、ものごとを洞察し、照見する眼は単なる肉眼とは異なるという考えからいわれたものであろう。これが未来のことを予知するという点で、予言的な考えをあてようとするが、これも一般でいう予言と異なって因果の理法に照らして未来を予想するのである。
古い経典には、死後の運命について弟子たちが仏陀にたずね、それに答えられる仏陀の姿が説かれているが、仏陀は、このことに関して四種の法鏡を説かれたことが『遊行経』に出ていて、それが単なる予言でないことを示している。すなわち、仏法僧の三宝への帰依と聖戒に対する帰依である。この4つに対する不壊の浄信を確立するならば、その人は将来必ずさとりに到達することができるという、未来の自らの運命を知ることができるというのである。このように天眼通とは未来に対する予知能力であるが、それも、また単なる奇蹟でなく、法則上での因から果への推理に基礎づけられるものである。
天耳智証通
次に、第三に天耳智証通とは、世間一切の苦楽の言葉、遠近一切の音を聞くことのできる能力をいう。いわば普通の耳では聞こえないような微かな音を聞きうる能力である。したがって、それは通常の人の聞くことのできない音を聞く能力であるが、この中に、通常人では、ただ音として声として、その表われた面だけしか聞けないのが、その音や声を通して、そこに示されている深い意味の洞察の可能なことも含めて考えられているとすれば、これは深い智慧の働きとして理解すべきである。
世界一切の苦楽の声を聞くとは、何が苦であり、何が楽であるのか、その苦楽の声を通して、人点の真実を理解することでもあろう。
他心智証通
次に第四の他心智証通とは、他人の考えていることを知る智慧である。他人の生活態度によって、その人の考えているであろうことを知り、また人々との交際の中に、その人の性格を知るなども、この中に含めて考えることができるであろう。それは単なる魔術ではなく、正しい智慧による洞察能力ということができる。
宿住随念智証通
次に宿住随念智証通とは、宿命通といわれるものである。自己及び他人の過去の運命や行動を知る自在智をいう。経典には、人間の前生に関する一切のことを知ることができる力であるといわれるが、この趣旨も、また、現在のその人の生活からみて、その人の以前の運命や行動を推知することである。ここでも、また、何ものにもとらわれざる清浄な平等智が、その根本となるものであることはいうまでもない。
漏尽智証通
次に第六は漏尽智証通である。いわゆる漏尽通であり、人間苦の根本となり、人間の行動を誤らしめる煩悩を滅尽せしめる智慧をいうのであり、煩悩を滅尽することに自在無尋であり、如実に四諦の理をしり、いわゆる「梵行すでに立ち、所作すでに弁じ、後有をうけざる」にいたらしめる智慧である。この漏尽通こそ仏教独自のものであり、いわば仏教の六通は、この漏尽通を根本とし、また、この漏尽通にきわまるといえるであろう。他の五神通は仏教以外にも通ずるものであるが、この第六だけは仏法とりりである。
ところで、仏陀はこれらの神通に対しては、しばしば否定的態度をとられる。なるほど、神通力の示現は、人々を教化するのに役立つであろうが、それをただ神通という立場で、一種の奇蹟的行為として行なうならば、却って人々を正しいことを見失わしめ迷わしめることとなるからである。
教化と六神通
さて、これら六通の人をを教化するはたらきについて、『大智度論』には、これを次第して次のように説明している。
天眼を得て人々を見ることができても、その人なの声を聞いていないから、そこで天耳を求む。かくて、天眼と天耳を得て、人々の身形や音声をしることができるが、憂・喜・苦・楽のことばを十分に理解できない。そこで、人々のことばを正しく理解できる智を完成し、次でそのことばのあらわす心を知るために他心通を求めるのである。こ
のようにして他人の心はわかったとしても、その心の起こり働く原因はわからないから、誤って、それを理解するかもしれない。そこで、次に宿命通をえて、それを諦める。このようにして、その人の憂喜苦楽等の心の働きの原因を確かめて、はじめて、そ
の人の真の救いのために漏尽通を求め、それを得、さらに、入舎を自在に教化するため神足通を得んと求めるのであると。
三明と六神通
さて、以上の六通の中から第五の宿命通と第二の天眼通、すなわち死生智と第六の漏尽通との3つをわざわざ三明というについて『倶舎論』では、三際の愚を対治するからであると説明する。すなわち、宿命通は過去に対する無智を対治し、死生智は未来の無智を対治し、漏尽通は現在の無智を対治することをいうのである。しかも、この三明は無学の位においていわれると説明している。
これら、三明六通のいわんとすることは、今日のわれわれの生活態度に十分考慮されるべきであり、過去現在未来に対する反省と事実の把握こそ真に現実を生きるものの正しい生活態度であることを知るべきである。