あみだしんこう
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阿弥陀信仰
総論
大乗仏教において最も重要な仏の一つである阿弥陀仏に対する信仰。この仏への信仰を中心に成立したのが浄土教である。阿弥陀の原語はサンスクリットのAmitāyus(無量寿)、Amitābha(無量光)で、中国で「阿弥陀」と音写された。阿弥陀仏の起源には異説が多く定説はないが、仏陀観の展開史のなかにそれを求める見解が最も妥当と考えられている。
阿弥陀仏は、釈尊が大乗の菩薩の理想像として見直され、救済仏として出現した仏であると考えられている。『無量寿経』によると、阿弥陀仏は法蔵(ダルマーカラ)比丘という菩薩であったが、一切衆生の救済のため四十八願(異本では二十四願、三十六願など)をたて長い修行ののちその願を成就し仏となり阿弥陀仏と呼ばれた。阿弥陀仏は、現に西方十万億土を過ぎた極楽に住し法を説いている。そこには安楽のみがあり、大乗仏教の浄土の典型とみなされる。
インド
阿弥陀信仰は紀元100年頃、北西インドにおいて『大無量寿経』『阿弥陀経』が成立したときに始まる。龍樹(150-250頃)がこれらの経典にもとづいて『十住毘婆沙論』の易行品を、世親(320-400頃)が『浄土論』を著わし、そのほか多数の経論が説かれた。阿弥陀信仰は密教のなかにもとりいれられ(『大日経』『金剛頂経』)、大日如来を中心とする五仏の一つとみなされた。
阿弥陀信仰はインドより中央アジアを東進し西域仏教国で行なわれ、中国に入って本格的な宗教的発展をとげた。『観無量寿経』はサンスクリット本もチベット訳もなく、中央アジアにおいて作られたと考えられている。密教化された阿弥陀信仰はチベットにも伝えられ流行した。
中国
中国では2世紀後半より中央アジアを経て阿弥陀仏に関する経典が伝訳され阿弥陀信仰をさかんに勧める人が現われた。盧山の慧遠(334-416)は、『般舟三昧経』にもとづき、白蓮社という念仏結社を作った。また、曇鸞(476頃-542)は『浄土論註』を著わし空思想にもとづく阿弥陀信仰の基礎づけを行ない、道綽(562-645)は『安楽集』、善導(613-681)は『観無量寿経疏』によって末法のときにおける阿弥陀信仰の実践的意義を強調した。また慧日(680-748)は仏教で説くあらゆる行をすべて浄土往生の行と認める立場を打ちだした。これは宋代以降の浄土教が禅などと融合する端緒を開くものとなった。
以上のように中国における阿弥陀信仰は慧遠流と善導流・慈愍(慧日)流の3系統に分けられるが、いずれも、三昧(瞑想)のなかで阿弥陀仏を観想する高度な禅観であったといえる。そのことは、浄土経典のなかでも特に『般舟三昧
経』や『観無量寿経』を重視しているところに如実に現われている。口称の念仏行を往生の正しき行として確立したといわれる善導においてすら、なお、観仏三昧は捨てられておらず、臨終見仏や夢中見仏という観想体験が彼の思想の基礎となっているのである。
日本
日本仏教史上にはじめて出現した阿弥陀信仰の事実は、唐より来朝した学問僧、恵隠の『無量寿経』講説(640)である。奈良時代に入ってからは、元興寺の智光(三論宗)が『無量寿経論釈』を著わし、かつ、夢告にもとづいて智光曼陀羅(浄土変相図)を描かしめたことで有名である。彼の阿弥陀信仰は多く、迦才の『浄土論』により、念仏のうちでも心念(八万四千の相を有する仏身と大悲力など仏の智慧身を心に念ずるもの)を重んじるものであった。
平安時代に入ると、天台宗の円仁(794-864)が中国五台山より法照流の五会念仏を移植し、常行三昧を始めて天台浄土教(山の念仏)を起こした。常行三昧はつねに口に仏名や経名を称えるもので不断念仏ともいわれるが、これを、法照流の五会(五つの旋法)にのせて唱和するという手法はその音楽性のゆえに、念仏が平安朝の大衆に広く受けいれら
れるきっかけを与えた。また、不断念仏はしだいに滅罪簿餓悔の法として意識され、天台宗における禅観のための手段という考えはすたれて、浄土往生の期待を満たすものとされた。この傾向は、遍照・良源・空也などを通して恵心僧都源信にいたり、善導流の念仏の確立となった。
一方、真言密教においても阿弥陀仏は五仏の一つに数えられているところから、高野山に高野聖と呼ばれる念仏集団が平安時代末期に成立した。なかでも覚鑁(1095-1143)は、真言と浄土の不二を説き、大日如来の密厳浄土に往生することを勧めている。
南都における阿弥陀信仰としては、特に、永観の口称念仏があげられる。彼は東大寺の別所である光明山寺に住み、日に一万遍から六万遍の念仏を称えて、極楽往生を期したという。比叡山の「山の念仏」の出世間的自力聖道門的なあり方にあきたらず、民衆のなかに入って阿弥陀信仰を鼓吹する人びとが平安中期頃からしだいに数を増していった。彼らは、最初、法華経と阿弥陀如来を併せ信仰して、現世と来世の幸福を一挙に得ようと願っていた。それがしだいに戒律を守って道を志す厳粛派と肉食妻帯したまま信仰に生きようとする自然派に分化した。
この後者のほうから現われた一群の宗教者が空也・性空・賀統・仁賀・増賀・行円などの聖・沙弥である。彼らは、往生講・迎講・阿弥陀講・千座講などという講を用いて共同の念仏を勧め、自己よりも縁者や隣人への善の廻向を強調している。大原の良忍は、自分の念仏が衆人に融合し、衆人の称える念仏が自分に通入するという融通念仏を創唱したがこれなど民衆化した念仏の極致といってよい。
平安末期より鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』を著わして浄土宗を開創し、親鸞(1173-1262)が『教行信証』を著わして浄土真宗の祖となった。法然は、「偏に善導に依」って称名の功徳を述べ、もっぱら念仏を称えることで阿弥陀仏の浄土に往生できることを確定し、親鸞は阿弥陀仏の本願の広大な不思議力を強調して、本願力により廻向される信心を往生の正因と主張している。
また、一遍(1239-1289)は念仏の札(算)をくばって諸国を遊行し、踊念仏を行なって宗教的エクスタシーを鼓吹した。彼はまた、熊野権現の霊告を受けたこともあって神祇信仰と阿弥陀信仰とを融合し、すべてが南無阿弥陀仏の名号につきると説いた。このように日本における阿弥陀信仰は阿弥陀仏力の絶対化と修行の簡素化を極限にまで推しすすめているといえる。
参考文献
- 中村元他訳註『浄土三部経』上,下[岩波文庫]岩波書店,昭38
- 宇野精一他編『仏教思想II」(講座東洋思想6)東京大学出版会,昭42
- 宇野精一他編『東洋思想の日本的展開』(講座東洋思想10)東京大学出版会,昭42
- 藤田宏達『原始浄土思想の研究』岩波書店,昭45
- 矢吹慶輝『阿弥陀仏の研究,増訂版』臨川書店,昭56
- 伊藤唯真編『阿弥陀信仰』(民衆宗教史叢書11)雄山閣出版,昭59
- 藤田宏達『善導』(人類の知的遺産18)講談社,昭60