ウダーナ8
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第八品 波托離村人品
一
是の如く我聞けり。世尊は或る時、舍衞城の祗陀林なる給孤獨〔長者の遊〕園に住<とど>まりたまへり。その時、世尊は涅槃に関する法話を以て、比丘衆を教示し激励し鼓舞し悦喜せしめたまへり。かの比丘等はそ〔の意義〕を理解し思惟し凡て心の中に統和し耳を傾けて法を聞けり。世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり。
- 「比丘等よ、かゝる處あり。そこには地も水も火も凰も空無辺処も識無辺処も無所有処も非想非非想処もこれなく、此世他世もなく、月日の両者もなし。比丘等よ、我はそれを来ともいはず、去ともいはず、住ともいはず、死ともいはず、生ともいはず。そこは依護なく転生なく縁境麈き処、是こそ苦の終りなれと我はいふ」と。
二
(八の一に同じ) 世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり、
- 「見難きは無我なりといふ。蓋し真諦は見易からざればなり。知る人は愛を識知し、見る人には何ものもなし」と。
三
(八の一、二に同じ) 世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり、
- 「比丘等よ、生ぜざるもの、あらざるもの、造られざるもの、作為されざるものあり。比丘等よ、若しその生ぜず、あらず、造られず、作為されざるものあらざれば、そこには生ぜるもの、あるもの、造られたるもの、作為されたるものの出要はこれあらざるべし。比丘等よ、生ぜず、あらず、造られず、作為されざるものあるが故に、生ぜるもの、あるもの、造られたるもの、作為されたるもの丶出要これあるなり」と。
四
(八の一、二、三に同じ) 世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまヘり、
- 「依止あるものには動転あり、依止なきものには動転なし。動転なければ軽安あり。軽安あれぱ喜なし。喜なければ来去なし。来去なければ死生なし。死生なければ此世もなく他世もなく両者の中間もなし。これこそ苦の終りなれ」と。
五
是の如く我聞けり。世尊は或る時、大比丘衆と倶に末羅国に遊行して波婆に達したまへり。こ丶に世尊は波婆をる鍛工の子なる淳陀の菴摩羅林に住まりたまへり。鍛工の子なる淳陀は、世尊の大比丘衆と倶に末羅国に遊行したまいて波婆に達し、波婆なる己の菴摩羅林に住まりたまふ」といふを聞けり。鍛工の子なる淳陀は世尊に近づきて礼敬し一隅に坐せり。一隅に坐するや、世尊は鍛工の子なる淳陀をば法話によりて教示し激励し鼓舞し悦喜せしめたまへり。
鍛工の子たる淳陀は世尊によりて教示せられ激励せられ鼓舞せられ悦喜せしめられて、世尊に白して次の如くいへり、
「大徳よ、世尊の比丘衆と倶に我が明日の食供養を受けたまはんことを」と。世尊は默してこれを諾したまへり。鍛工の子なる淳陀は世尊の諾したまひしことを知りて、座より起ち、世尊に礼敬し、右繞の礼をなして去れり。鍛工の子なる淳陀はその夜更けて後、己が家にて優れたる硬き又は軟き食物及び多量の栴檀樹茸を用意せしめ、次の如くいひて世尊に時を知らしめたり、
「大徳よ、今、正に食事調へり」と。
世尊は朝時内衣を著け鉢衣を携へて、比丘衆と倶に鍛工の子なる淳陀の家に近づき、設けられたる座に著きたまへり。座に著きたまふや、世尊は鍛工の子なる淳陀に次の如く宣へり、
「淳陀よ、汝が調へたる栴檀樹茸を以て唯我のみを供養せよ。而して〔同じく〕調へたる他の硬き又は軟き食物を以て比丘衆を供養せよ」と。
「諾、大徳よ」と鍛工の子なる淳陀は世尊に応諾して、調へたる栴檀樹茸を世尊に供養し。「同じく」調へたる他の硬き又は軟き食物を以て比丘衆を供養せり。世尊は又鍛工の子なる淳陀に告げて宣はく、
「淳陀よ、残りたる栴檀樹茸は汝穴を掘りてこれを埋めよ。淳陀よ、我は人・天・魔・梵の世界に於て、沙門・婆羅門・人・天を合せたる集りに於て、如来を外にしてはそを食ひて十分に消化し得るものあるを見ず」と。
「諾、大徳よ」と鍛工の子なる淳陀は世尊に応諾して、残りたる栴檀樹茸を穴に埋め世尊に近づきて、礼敬し一隅に坐せり。一隅に坐するや、世尊は鍛工の子なる淳陀を法話によりて教示し激励し鼓舞し悦喜せしめたまひ、座より起ちて去りたまへり。鍛工の子なる淳陀の供養物を食したまへる世尊には激しき病起り、血痢にして死に近き〔程の〕強痛起れり。茲に於てか世尊は正念正智にして苦しむことなくして耐へ忍びたまへり。世尊は尊者阿難に告げて次の如く宣へり。「阿難よ、〔いざ〕我等拘尸那羅に赴かん」と。「諾、大徳よ」と尊者阿難は世尊に応諾せり。
- 「是の如く我聞けり。鍛工の子なる淳陀の供養物を食ひて雄者は激しく死に近き〔程の〕重き病に罹りたまへり。
- 栴檀樹茸を食したまへる師には重き病起れり。世尊は血痢しつ丶も『我は拘尸那羅の都に赴かん』と宣へり」。
時に世尊は道より下りて、一樹の下に近づき、尊者阿曩に次の如く宣へり、「汝、阿難よ、願くは我がために四重の僧伽梨衣を敷け。我疲れたり。憩はんと欲す」と。
「諾、大徳よ」と、尊者阿難は世尊に応諾して四重の僧伽梨衣を敷けり。世尊は設けられたる座に著きたまへり。座に著きたまふや、世尊は尊者阿難に次の如く宣へり、
「汝、阿難よ、願くは我に水を持ち来れ。我渇きたり。阿曩よ、我水を飮まんと欲す」と。かく宣ふや、尊者阿難は世尊に白して次の如くいへり、「大徳よ今五百輌の車通過したり。車輪によりて断たれたる、その水は浅く、掻き乱され濁りて流る丶なり。大徳よ、かの迦屈嗟河は近くにあり、清浄にして甘美・清涼・透明・昇降に便にして快適なり。世尊はその処に於て水を飲み肢体を冷したまふべし」と。
再び世尊は尊者阿難に次の如く宣へり、「阿難よ、願くは我に水を持ち来れ。我渇きたり。阿難よ、我水を飲まんと欲す」と。
再び尊者阿難は世尊に白して次の如くいへり、「大徳よ、今…乃至…肢体を冷したまふべし」と。
三たび世奪は尊者阿難に次の如く宣へり、「汝阿難よ。願くは…乃至…水を飲まんと欲す」と。「諾、大徳よ」と尊者阿難は世尊に応諾し。鉢を携へて、その河に近づけり。その河は車輪によりて断たれ、浅く、掻き乱され濁りて流れつ丶ありしが、尊者阿難の近づくや、清く澄み濁りなくして流れたり。尊者阿難は「実に不可思議なり。〔噫〕実に未曾有なり。如来の大神力あり、大威力あることや。この河は車輪によりて断たれ、浅く、掻き乱され濁りて流れつ丶ありしが、我近づくや、清く澄み濁りなくして流る丶なり」といひて、鉢にて水を携へ世尊に近づきて次の如く白せり、
「大徳よ。不可思議たり。大徳よ、未曾有たり。如来の……濁りなくして流れつ丶あり。世尊の水を飲みたまはんことを。善逝の水を飲みたまはんことを」と。世尊は水を飲みたまへり。
世尊は大比丘衆と倶に迦屈嗟河に近づき迦屈嗟河に入り、水を浴び、水を飲み、再び出でて菴摩羅林に近づき尊者淳陀に次の如く宣へり。
「汝、淳陀よ、願くは我に四重の僧伽梨衣を敷け。我疲れたり。臥せんと欲す」と。「諾、大徳よ」と尊者淳陀は世尊に応諾して四重の僧伽梨衣を敷けり。世尊は〔速かに〕起たんとの想を抱きて、正念正智にして足を重ねて、右脇を下にし。獅子の臥に〔倣いて〕臥したまへり。尊者淳陀はそこにて世尊の面前に坐せり。
- 「佛陀は清く甘く澄める迦屈嗟河に赴きて、師即ちこの世に並びなき如来は痛く疲れたる姿体にて水中に飛び入りたまへり。水を浴び水を飲み比丘衆の群中にて尊ばれたまへる師は水を出で来りたまへり。
- 茲に師・世尊・法を転ずる人・大聖は菴摩羅林に近づきたまへり。
- 淳陀と名づくる比丘を呼びて次の如く宣へり、「我がために四重のものを拡げよ。我臥せんと欲す」と。
- 彼淳陀は修練せる人、〔佛〕にせかれて四重のものを速かに敷けり。師は痛く疲れたる姿體にて臥したまへり。
- 淳陀はそこにて〔佛〕の面前に坐せり」と。
時に世尊は尊者阿難に次の如く宣へり、「阿難よ、鍛工の子なる淳陀にかくいひて或は追悔の念を起さしむるものあらん、『法友淳陀よ、如来が汝の最後の供養を受けて、涅槃に入りたまふことは汝の不利益なり。汝の惡得なり』と。阿難よ、鍛工の子なる淳陀の追悔の念は次の如くいひて滅除せらるべきなり、『法友淳陀よ、如来が汝の最後の供養を受けて、涅槃に入りたまふことは汝の利益なり、汝の善得なり。法友淳陀よ、我は世尊の面前にありてこれを聞けり。面前にありて受納したり。〔即ち〕これ等二つの供養は正に相等しき結果あり、果報あり、他の供養よりも遙かに大なる結果あり、果報あり。何をか二といふ。その供養物を食して如来は無上の等覺を得たまふと又その供養物を食して無余涅槃に入りたまふと、これ等二つの供養は正に相等しき結果あり、果報あり、他の供養よりも遙かに大をる結果あり、果報あり。鍛工の子なる尊者淳陀は寿命増長の業を積みたり。尊者淳陀は麗色増長の業を積みたり。尊者淳陀は福楽増長の業を積みたり。尊者淳陀は生天の助と麈るべき業を積みたり。尊者淳陀は称誉増長の業を積みたり。尊者淳陀は主権を得るの助けとをるべき業を積みたり』と。是の如くして鍛工の子なる淳陀の追悔の念は滅除せらるぺきなり」と。世尊はこの事由を知りて、その時この優陀那を唱へたまへり、
- 与ふるものにこそ功徳は増さるゝなれ。自ら制ずるものには怨恨の積まるゝことなし。善巧者は惡を捨て、貪瞋癡の滅尽よりして般涅槃に入れり」と。
六
是の如く我聞けり。世尊は或る時、大比丘衆と倶に摩掲陀国に遊行して波托離村に達したまへり。波托離村の優婆塞等は「世尊の大比丘衆と倶に摩掲陀国を遊行して、波托離村に達したまへり」といふを聞けり。波托離村の優婆塞等は世尊に近づき、礼敬して一隅に坐せり。一隅に坐するや、波托離村の優婆塞等は世尊に白して次の如くいへり、「大徳よ、世尊は我等の休息堂〔の供養〕を受けたまはんことを」と。世尊は默してこれを諾したまへり。波托離村の優婆塞等は世尊の諾したまへることを知りて座より起ち、世尊に礼敬し、右繞の礼をなして、かの休息堂に近づけり。近づきて、総て敷物を休息堂に敷きつめて、座を設け、水瓶を備えて、胡麻油の燈火を用意し世尊に近づけり。近づきて、世尊に礼敬し一隅に立てり。一隅に立ちて、波托離村の優婆塞等は世尊に白して次の如くいへり、
「大徳よ、休息堂は總て敷物を以て敷かれ、座は設けられ、水瓶は備へられ、胡麻油の燈火も用意せられたり。世尊は今正に時よしと思惟したまはば、そをなしたまへ」と。世尊は朝時内衣を著け、鉢衣を携へて比丘衆と倶に休息堂に近づき足を洗ひて、休息堂に入り。中央の柱に倚り、東方に向ひて坐したまへり。比丘衆も亦足を洗ひて、休息堂に入り、中央の壁に倚りて、世尊を前にし、東方に向ひて坐せり。波托離村の優婆塞等も亦足を洗ひて、休息堂に入り、東方の壁に倚りて、世尊を前にし、西方に向ひて坐せり。
世尊は波托離村の優婆塞等に告げて次の如く宣へり。「居士等よ、汚戒者の破戒には、これ等五種の患難あり。何をか五種となす。
⑴ こゝに居士等よ、汚戒者破戒者は放逸を原として大なる失財に逢ふ。これ汚戒者破戒の第一の患難なり。
⑵ 復次に居士等よ、汚戒者破戒者には悪名聞起る。これ汚戒者破戒の第二の患難なり。
⑶ 復次に居士等よ、汚戒者破戒者は如何をる類の集會に入るにもせよ、そが刹帝利の集会にてもあれ、婆羅門の集会にてもあれ、居士の集会にてもあれ、沙門の集会にてもあれ、自信なく恥ぢらひてこれに入る。これ汚戒者破戒の第三の患難なり。
⑷ 復次に居士等よ、汚戒者破戒者は迷ひ惑ひて死す。これ汚戒者破戒の第四の患難なり。
⑸ 復次に居士等よ、汚戒者破戒者は身壊れ命終りて後、悪生・悪趣・墮処・地獄に生る。これ汚戒者破戒の第五の患難なり。
居士等よ。これ等は汚戒者破戒の五種の患難なり。
居士等よ、持戒者の成戒にはこれ等五種の功徳あり。何をか五種となす。
⑴ こゝに居士等よ。持戒者成戒者は不放逸を原として大なる積財を得。これ持戒者成戒の第一の功徳なり。
⑵ 復次に居士等よ、持戒者成戒者には好名聞起る。これ持戒者成戒の第二の功徳なり。
⑶ 復次に居士等よ、持戒者成戒者は如何なる類の集会にもせよ、そが刹帝利の集会にてもあれ、婆羅門の集会にてもあれ。居士の集会にてもあれ、沙門の集会にてもあれ、自信あり恥ぢらふことなく、これに入る。これ持戒者成戒の第三の功徳なり。
⑷ 復次に居士等よ、持戒者成戒者は迷ひ惑ふことなくして死す。これ持戒者成戒の第四の功徳なり。
⑸ 復次に居士等よ、持戒者成戒者は身壊れ命終りて後、善趣・天界に生る。これ持戒者成戒の第五の功徳なり。
居士等よ、これ等は持戒者成戒の五種の功徳なり」と。
世尊は波托離村の優婆塞等を夜の更くるまで、法話によりて教示し激励し鼓舞し悦喜せしめたまひ、次の如くいひて、〔彼等を〕去らしめたまへり、「居士等よ、夜は更けたり。今正に時よしと思はばそをなせ」と。波托離村の優婆塞等は世尊の法話を歓受し。随喜して座より起ち、世尊を礼敬し。右繞の礼をなして去れり。
波托離村の優婆塞等去りて久しからざるに、世尊は空屋に入りたまへり。その時、摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは跋闍族を防がんがために波托離村に都を築きつゝありき。時に千といふ多数の天人ありて、波托離村に於て土地を占有せり。某の場所にて大力ある天人等の土地を占有せるや、そこは大力ある王者や王大臣が住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。某の場所にて中位の天人等の土地を占有せるや、そこは中位の力ある王者や王大臣が住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。某の場所にて力劣れる天人等の土地を占有せるや、そこは力劣れる王者や王大臣が住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。世尊は清浄にして人〔眼〕を超えたる天眼を以て、それ等千といふ多くの天人等の波托離村の土地を占有せるを見たまヘり。某の場所にて大力ある……住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。某の場所にて中位の……住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。某の場所にて力劣れる……住居を作らんとて心を傾けたる処なりき。世尊は夜の明け方起き出でて尊者阿難に告げて次の如く宣へり、「阿難よ、何人か波托離村に於て都を築かんとするぞ」と。答へて曰く、「大徳よ、摩掲陀の大臣須尼陀と禺舍とは跋闍族を防がんがために、波哩離村に都を築か んとナるなり」と。世尊は次の如く宣へり、『阿難よ、恰も三十三天一の天子』と倶に 協議したるが如く、阿難よ、摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは跋闍族を防がんがために波托離村に於て都を築きつゝあり。阿難よ、こゝに我は清浄にして人〔眼〕を超えたる天眼を以て、千といふ多くの天人等の波托離村に於て土地を占有せるを見たり。某の場所にて……作らんとて心を傾けたる処なりき。〔三たび〕阿難よ、この処が貴き場所たる限り、商賈の通路たる限り、こゝは貨物の〔積〕卸に於て第一の都たらん。〔されど〕阿難よ、波托離子〔城〕には火水及び離間の三障難あらん」と。
摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは世尊に近づきて互に礼を交し、悦喜すベき話、記憶すベき話をなして一隅に立てり。一隅に立ちて、摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは世尊に次の如く白せり、「尊〔師〕瞿曇は比丘衆と倶に今日我等の食供養を受けたまはんことを」と。世奪は默してこれを諾したまへり。摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは世尊の諾したまへることを知りて、己の家に赴けり。赴きて、己の家にて、優れたる硬き又は軟き食物を用意せしめ次の如くいひて、世尊に時を知らせり、「尊〔師〕瞿曇よ、今、正に食事調へり」と。世尊は朝時内衣を著け鉢衣を携へて、比丘衆と倶に摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍との家に近づき。設けられたる座に著きたまへり。摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは佛陀を首とせる比丘衆をば優れたる硬き又は軟き食物を以て、己の手にて飽きて謝するに至るまで供養したり。摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とは世尊の食し了りて。鉢より手を下したまへるを見、一つの低き座をとりて一隅に坐せり。一隅に坐せる摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とに対して世尊は次の偈を以て、随喜の意を述べたまへり。
- 「某の地方に賢き性質のもの等住居を定めて、戒徳あり。自制あり、梵行あるものを養ひ、
- そこにありし天人等は彼等に供養物を捧ぐれば、彼等は供養せられて、自ら彼を供養し、尊敬せられて自ら彼を尊敬す。それより恰も母のその実子を愛撫するが如くに、彼を憐む。
- 天人に恵を受けたる人は常に善福を見る」と。
世尊は摩掲陀の大臣須尼陀と禹舍とに対し、この偈を以て随喜の意を表し、座より起ちて去りたまへり。その時。摩褐陀の大臣須尼陀と禹舍とは世尊の後より従ひ行けり。而して次の如く思へり、「今日沙門瞿曇の門より出でたまはば、その門を瞿曇門と名づけん。某の渡場より恒河を渡りたまはば、その渡場を瞿曇渡場と名づけん」と。世尊は門より出でたまへり。その門を瞿曇門と名づけたり。世尊は恒河に近づきたまへり。その時、恒河は烏が水を飲み得る程に岸と同じ高さに〔水〕満ちたりき。此岸より彼岸に赴かんと欲して或る人々は舟を捜せり。或る人々は筏を捜せり。或る人々は桴を作れり。世尊は恰も力士が曲げたる腕を伸ばし、伸ばせる腕を曲ぐるが如く、〔速かに〕比丘衆と倶に恒河の此岸より沒して彼岸に立ちたまへり。此岸より彼岸に渡らんと欲して、かの人人の或るものは舟を捜し、或るものは筏を捜し、又或るものは桴を作れるを世尊は見たまへり。世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり。
- 「或るものは橋を作り沼を捨てゝ河海を渡る。世の〔愚なる〕人々の桴を作る間に、かゝる賢者は渡り過ぐるなり」と。
七
是の如く我聞けり。世尊は或る時。隨僧那伽娑摩羅と倶に憍薩羅国に於て、大道に従ひて歩みたまへり。尊者那伽娑摩羅は途中岐路を見たり。見て、世尊に白して次の如くいへり、「大徳世尊よ、これ我等の道なり、我等これを行かん」と。かくいふや、世尊は那伽娑摩羅に告げて宣へり、「那伽娑摩羅よ、これ我等の道なり、我等これを行かん」と。{中略}三たび尊者那伽娑摩羅は世尊に白して次の如くいへり、「大徳世尊よ、これ我等の道なり、我等これを行かん」と。尊者那伽娑摩羅は「大徳世尊よ、鉢衣こゝにあり」といひて、世尊の鉢衣をそこなる大地に捨てゝ去れり。尊者那伽娑摩羅がその道を行くや、途中盗人あり、出で来りて手足を打ち鉢を毀し僧伽梨衣を裂きたり。尊者那伽娑摩羅は毀されたる鉢を持ち裂かれたる僧伽梨衣を携へて世尊に近づき。礼敬して一隅に坐せり。一隅に坐するや、尊者那伽娑摩羅は世尊に白して次の如くいへり、「大徳よ。我かの道を行くや、途中盗人あり、出で来りて手足を打ち鉢を毀し僧伽梨衣を裂けり」と。世尊はこの事由を知りて、その時この優陀那を唱へたまへり。
- 「倶に行じ一処に住し他の人々と混ぜる智者は惡を知りて捨つること、恰も乳を飮む蒼鷺の水を捨てゝ乳のみを飮むが如し」と。
八
是の如く我聞けり。世奪は或る時、舍衞城の東園なる鹿母講堂に住まりたまへり。その時、鹿母毘舍佉の〔甚だ〕愛すべく喜ぶべき孫死せり。鹿母毘舍佉は濡れたる衣服、濡れたる毛髪のまゝにて、日中世尊に近づき、礼敬して一隅に坐せり一隅に坐するや、世尊は鹿毋毘舍佉に告げて次の如く宣へり、「毘舍佉よ、何が故に汝は濡れたる衣服、濡れたる毛髮のまゝにて、日中こゝに来れるや」と。
答へて曰く、「大徳よ、妾が〔甚だ〕愛すベく喜ぶべき孫死せり。妾はこの故に濡れたる衣服、濡れたる毛髪のまゝにて、日中こゝに來れるなり」と。世尊の宣はく、「毘舍佉よ、汝は舍衛城に於てあらん限りの人数の子と孫とを〔得んと望むや〕と。答へて曰く、「世尊よ、妾はそこにあらん限りの人数の子と孫とを「得んと望むなり」と。世尊の宣はく、「毘舍佉よ、されど舍衞城に於ては日々幾何の人々死するや」と。答へて曰く、「大徳よ、舍衞城に於ては日々十人の人々死することあり。九人の人々……八人……七人……六人……五人……四人……三人……二人…… 大徳よ、舍衞城に於て日々唯一人の人のみ死することあり。大徳よ、舍衞城に於て人人の死せざることなきなり」と。世尊の宣はく、「毘舍佉よ、汝はそを如何に考ふるや、汝は何時何処にて濡れたる衣服を著け。濡れたる毛髪をなすことなからんや」と。答へて曰く。「大徳よ、否。かくの如きことこれあるべし。大徳よ、妾にはそれ程多くの子や孫は不用なり」と。世尊は次の如く宣へり、「毘舍佉よ、百の愛するものを持てる人には百の苦しみあり。九十の愛するものを持てる人には九十の苦しみあり。八十の愛するものを持てる人には八十の苦しみあり。七十の愛するものを持てる人には七十の苦しみあり。六十の愛するものを持てる人には六十の苦しみあり。五十の愛するものを持てる人には五十の苦しみあり。四十の愛するものを持てる人には四十の苦しみあり。三十の愛するものを持てる人には三十の苦しみあり。二十の愛するものを持てる人には二十の苦しみあり。十の愛するものを持てる人には十の苦しみあり。九の愛するものを持てる人には九の苦しみあり。八の愛するものを持てる人には八の苦しみあり。七の愛するものを持てる人には七の苦しみあり。六の愛するものを持てる人には六の苦しみあり。五の愛するものを持てる人には五の苦しみあり。四の愛するものを持てる人には四の苦しみあり。三の愛するものを持てる人には三の苦しみあり。二の愛するものを持てる人には二の苦しみあり。一の愛するものを持てる人には一の苦しみあり。愛するものを持たざる人には亦苦もなし。彼等には憂悲なく塵垢なく絶望なしと我はいふ」と。世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまヘり、
- 「何人にもせよ。この世にて諸の形に於て憂や悲や苦あるもの、これ等は喜を縁として存す。喜なき処にはこれ等もなし。それ故にこの世の何処にも喜なき彼等は安楽にして憂なし。されば無憂離塵を望むものはこの世の何處にも喜を生ずることなかれ」と。
九
是の如く我聞けり。世尊は或る時、王舍城の竹林、迦蘭陀迦園に住まりたまへり。尊者陀驃摩羅子は世尊に近づきて、礼敬し一隅に坐せり。一隅に坐するや、尊者陀驃摩羅子は世尊に白して次の如くいへり、「善逝よ、今は我が涅槃の時なり」と。世尊の宣はく。「陀驃よ、汝今正に時よしと思はばそをなせ」と。尊者陀驃摩羅子は座より起ちて、世尊を礼敬し右繞の礼をなして空中に飛び上り。中空に趺坐を組みて火大定に住し、出でて涅槃に入れり。空中に飛び上り、中空に趺坐を組みて火大定に住し、出でて涅槃に入れる尊者陀驃摩羅子の身体の荼毘に附せられ、燒かれつゝある時、灰も煤も見られざりき。恰も醍醐味や胡麻油の燒かれ燃やされたる時。灰も煤も残らざる如く。空中に飛び上り、中空に趺坐を組みて火大定に住し。出でて涅槃に入れる尊者陀驃摩羅子の身体の荼毘に附せられ燒かれつゝある時、灰も亦煤も見られざりき。世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり。
- 「身は壤れ想は滅び受も亦総て燒き失せたり。諸行は止息せり。意識は滅尽に逹したり」と。
一〇
是の如く我聞けり。世尊は或る時、舍衞城の祗陀林なる給孤獨〔長者の遊〕園に住まりたまへり。その時、世尊は比丘等を呼びて、「比丘等よ」と宣へり。「大徳よ」とかの比丘等は世尊に応諾せり。世尊は次の如く告げたまへり、「比丘等よ、陀驃摩羅子は空中に飛び上りて……灰も亦煤もなかりき。(八の九に同じ)恰も醍醐味や胡麻油の……灰も亦煤もなきが如く、比丘等よ、空中に飛び上り……涅槃に入れる陀驃摩羅子……灰も亦煤もななかりき」と。世尊はこの事由を知りて、その時、この優陀那を唱へたまへり、
- 「鉄斧にて打たれたる焔々たる火花の次第次第に淌え失せて、何人もその行方を知らざる如く、よく解脱を得、欲や束縛の大海を超え、動揺なき安楽に達したるものゝ行方は知るべきなし」と。
波哩離村人品第八
茲に次の如き摂頌あり、
- 涅槃は四度語られ、淳陀、波托離村人、岐路、毘舍佉、陀驃と共に、この十なり。