入初地品
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入初地品 第二
『十住毘婆沙論』巻の第一
問いて曰わく、汝は此の語を説いて我が心を開悟し、甚だ以って欣悦す。今、十地を解けば必ず利益する所多からん。何等かを十と為すや。
答えて曰わく、
此の中、十地の法は 去・末・今の諸仏が
諸もろの仏子の為めの故に 已に説き、今(説き)、当さに説く
初地は歓喜と名づけ 第二は離垢地
三は名づけて明地と為し 第四は焔地と名づく
五は難勝地と名づけ 六は現前地と名づけ
第七は深遠地 第八は不動地なり
九は善慧地と名づけ 十は法雲地と名づく
十地の相を分別することは 次後に当さに広く説くべし
「此の中」とは、大乗の義の中なり。「十」とは数法なり。「地」とは、菩薩の善根の階級、住処なり。「諸仏」とは、十方三世の諸もろの如来なり。「説く」とは開示し解釈するなり。「諸もろの仏子」とは諸仏の真実の子、諸もろの菩薩是れなり。是の故に菩薩を名づけて仏子と為す。過去・未末・現在の諸仏、皆な此の十地を説く。是の故に「已に説き、今説き、当さに説く」と言う。
菩薩は初地に在って始めて善法の味を得て、心に歓喜多し。故に歓喜地と名づく。第二地の中にて十善道を行じ諸もろの垢を離れるが故に、離垢地と名づく。第三地の中にて広博多学にして衆の為めに法を説き能く照明を作す故に、名づけて明地と為す。第四地の中にて布施・持戒・多聞が転(ウタ)た増して威徳熾盛なる故に、名づけて炎地と為す。第五地の中にて功徳力は盛んにして一切の諸魔が壊すること能わざる故に、難勝地と名づく。第六地の中にて障魔の事已みて諸もろの菩薩道の法は皆な現在前する故に、現前地と名づく。第七地の中にて三界を去ること遠く法王の位に近づく故に、深遠地と名づく。第八地の中にて若しは天魔・梵・沙門・婆羅門も能く其の願を動ずること無き故に、不動地と名づく。第九地の中にて其の慧は転た明らかにして調柔し増上する故に、善慧地と名づく。第十地の中にて菩薩が十方無量の世界に於いて能く一時に法雨を雨らすことは劫焼已んで普ねく天雨を廚ぐが如くなれば、法雲地と名づく。
問いて曰わく、已に十地の名を聞く。今、云何んが初地に入り、地の相貌を得、及び地を修習するや。
答えて曰わく、
若しは厚く善根を種え 善く諸行を行じ
善く諸もろの資用を集め 善く諸仏を供養し
善知識に護られ 深心を具足し
悲心もて衆生を念じ 無上法を信解す
此の八法を具し已って 当さに自から発願して言うべし
我れ自から度することを得已って 当さに復た衆生を度すべし、と
十力を得る為めの故に 必定聚に入れば
則ち如来の家に生じ 諸もろの過咎有ること無からん
即ち世間道を転じて 出世上道に入らん
是れを以って初地を得る 此の地を歓喜と名づく
「厚く善根を種える」とは、如法に諸もろの功徳を修集するを名づけて「厚く善根を種える」と為す。「善根」とは、不貪・不恚・不癡なり。一切の善法は此の三より生ずるが故に名づけて「善根」と為す。一切の悪法は皆な貪・恚・癡より生ず、是の故に此の三を不善根と名づくるが如し。阿毘曇の中に種種に分別す。欲界繋・色界繋・無色界繋・不繋を合わせて十二と為す。有心相応と有心不相応とを合わせて二十四なり。此の中、無漏の善根は阿耨多羅三藐三菩提を得る時に修集す。余の九は菩薩地の中にて修集す。又た未発心の時にも亦た修集す。或るいは一心の中に三有り。或るいは一心の中に六有り。或るいは一心の中に九有り。或るいは一心の中に十二有り。或るいは但だ心相応を集めて心不相応を集めず。或るいは心不相応を集めて心相応を集めず。或るいは心相応も亦だ心不相応も集め、或るいは心相応も心不相応も集めず。是の諸もろの善根の分別は、阿毘曇の中に広く説くが如し。此の中の善根は衆生の為めに無上道を求める故に行ぜられる諸もろの善法にして、皆な善根と名づく。能く薩婆若智(サバニャチ)を生ずる故に名づけて善根と為す。
「諸行を行ず」とは、善く行ずるは清浄に名づけ、諸行は持戒に名づく。清浄に戒を持ち次第して行ず。是の持戒、七法と和合する故に名づけて善く行ずと為す。何等をか七と為す。一は慚、二は愧、三は多聞、四は精進、五は念、六は慧、七は浄命(すなわち)浄身口業なり。此の七法を行じ具さに諸もろの戒を持つ。是れを「善く諸行を行ず」と名づく。又た経に諸禅を説いて行処と為す。是の故に禅を得れば名づけて「善く諸行を行ず」と為す。此の論の中には必ずしも禅を以って乃ち発心を得るとはせず。所以は何(イカ)ん。仏在世の時、無量の衆生は皆な亦た発心するも、必ずしも禅有るにあらず。又た白衣の在家も亦た名づけて善く行ずと為す。
「善く資用を集む」とは、上の偈の中に説かれる「厚く善根を種え、善く諸行を行じ、多く仏を供養し、善知識が護り、深心を具足し、衆生を悲念し、上法を信解する」是れを資用と名づく。又た本行の善法の必ず修行すべきものも亦た資用と名づく。所謂る、布施、忍辱、質直、不諂心、柔和、同止、楽(ネガ)って慍(イカ)ること無く、恨性殫(コトゴト)く尽き、過ちを隠さず、偏執せず、狠戻(コンレイ)せず、諍訟せず、自恃(ジジ)せず、放逸ならず、憍慢を捨て、矯異を離れ、身を讃せず、事に堪忍し、決定心にて能く果は敢えて受け、教授を捨易せず、少欲知足にして独処を楽う。是の如き等の諸法は随って行じ、已りて漸く能く殊勝の功徳を具す。是の法は未だ堅牢ならざる故に名づけて本行と為す。若し是の法を離れば進んで勝妙の功徳を得ること能わず。是の故に、此の本行の法と八法と和合する故、初地の資用と為す。
「善く諸仏を供養す」とは、若しは菩薩、世世に如法に常に多く諸仏を供養するなり。供養に二種あり。一には善く大乗の正法、若しは広若しは略を聴く。二には四事にて供養し、恭敬し、礼侍する等なり。此の二法を具して諸仏を供養するを名づけて「善く諸仏を供養す」と為す。
「善知識」とは、菩薩に四種の善知識有りと雖も、此の中、説く所を能く教えて大乗に入らして、諸もろの波羅蜜を具せしめ、能く十地に住せしむる者なり。所謂る、諸もろの仏・菩薩及び諸もろの声聞にして、能く大乗の法を示教し利喜して退転せざらしむ。「守護」とは、常に能く慈愍し、教誨して、善根を増長することを得しむ。是れを守護と名づく。
「深心を具足す」とは、深く仏乗、無上大乗、一切智乗を楽(ネガ)うを名づけて深心を具足すと為す。
問いて曰わく、無尽意菩薩は和合品の中に於いて舎利弗に告げたまわく、「諸もろの菩薩の所有る発心は皆な深心と名づく。一地より一地に至る故に名づけて趣心と為す。功徳を増益する故に名づけて過心と為す。無上の事を得る故に名づけて頂心と為す。上法を摂取する故に名づけて上心と為す。現前に諸仏の法を得る故に名づけて現前心と為す。利益の法を集める故に名づけて縁心と為す。一切法に通達する故に名づけて度心と為す。所願倦まざる故に名づけて決定心と為す。所願を満たす故に名づけて喜心と為す。身自から成辦する故に無侶心と名づく。敗壊の相を離れる故に調和心と名づく。諸もろの悪無き故に名づけて善心と為す。悪人を遠離する故に不雑心と名づく。頭を以って施す故に難捨心と名づく。破戒の人を救う故に持難戒心と名づく。能く下劣の悪を加うを受ける故に難忍心と名づく。涅槃を得て能く捨する故に難精進心と名づく。禅を貪らざる故に難禅定心と名づく。助道の善根を厭足すること無き故に難慧心と名づく。能く一切事を成ずる故に度諸行心と名づく。智慧にて善く思惟する故に離慢大慢我慢心と名づく。報を望まざる故に是れ一切衆生の福田心なり。諸仏の深法を観る故に無畏心と名づく。障礙せざる故に増功徳心と名づく。常に精進を発こす故に無尽心と名づく。能く重担を荷受する故に不悶心と名づく」と。又た深心の義とは、等しく衆生を念じ普ねく一切を慈しむ。賢善を供養し悪人を悲念し師長を尊敬す。救い無き者を救い、帰無きには帰と作り、洲無きには洲と作る。究竟無き者には為めに究竟と作り、侶(トモ)有ること無き者には能く為めに侶と作る。曲人の中に質直心を行じ、敗壊の人の中に真正心を行じ、諛諂(ユテン)の人の中に無諂心を行ず。恩を知らざるものの中に恩を知ることを行じ、作を知らざるものの中に作を知ることを行ず。無利益の中に能く利益を行じ、邪しまな衆生の中に正行を行じ、憍慢の人の中に無慢の行を行ず。教に随わざるものの中に慍恚(オンニ)せず、罪の衆生の中に常に守護を作す。衆生の所有(アラユ)る過(トガ)に其の失を見ず、福田を供養し、教誨に随順し、化を受けて難ぜず。阿練若(アレンニャ)の処に一心に精進し、利養を求めず、身命を惜まず。復た次に内心清浄なる故に誑惑あること無く、善の口業の故に自から称歎せず、止足を知る故に威迫を行ぜず、心に垢無き故に柔和を行ず。善根を集める故に能く生死に入り、衆生の為めの故に一切の苦を忍ぶ。菩薩に是の如き等の深心の相あって窮尽す可からず。汝が今、但だ深心の相を説くは、何ぞ少なからざるを得んや。
答えて曰わく、少なからざるなり。無尽意は一切の深心の相を総(ス)べ、一処に在って説く。而も此の中にて諸地に分布す。此の十住経は地地に別に深心の相を説く。是の故に菩薩は諸地の中に随って皆な深心を得る。深心の義は即ち其の地に在り。今、初地の中に二つの深心を説く。一には大願を発こす。二には必定地に在り。是の故に当さに知るべし、十地に在るに随って善く深心を説く。汝が何ぞ少なからざるを得んやと説けるは、是の事然らず。
「悲心もて衆生を念ず」とは、悲を成就する故に名づけて悲者と為す。何をか謂いて悲と為す。衆生を悼愍(トウミン)し苦難を救済するなり。
「諸上法を信解す」とは、諸仏の法に於いて信力にて通達するなり。「発願す、我れ自から度ること得已って当さに衆生を度すべし」とは、一切の諸仏の法は願を其の本と為し、願を離れば則ち成ぜず。是の故に願を発こすなり。
問いて曰わく、何故に、我れ当さに衆生を度すべし、と言わずして、自から度ること得已って当さに衆生を度すべし、と言うや。
答えて曰わく、自から未だ度ることを得ずして彼れを度すること能わず。人自から淤泥に没せんに、何ぞ能く余人を拯抜せんが如し。又た水の為めに漂わされて溺れるを済うこと能わざるが如し。是の故に「我れ度り已って当さに彼れを度すべし」と説く。説くが如し。
若し人あって自から畏れを度するは 能く帰依する者を度す
自から未だ疑悔を度せざるは 何ぞ能く所帰を度せん
若し人自から善ならざれば 人をして善ならしむこと能わず
若し自から寂滅ならざれば 安(イズク)んぞ能く人をして寂ならしめん
是の故に先ず自から善く寂にして後ちに人を化す。又た法句の偈に説くが如し。
若し能く自から身を安んじ 善処に在れば
然る後ちに余人を安んじ 自から所利に同ず
凡そ物は皆な、先ず自から利して後ちに能く人を利す。何以故(ナントナレバ)、説くが如し。
若し自から己れの利を成ぜば 乃し能く彼れを利す
自から捨てて他を利せんと欲せば 利を失い後ちに憂悔せん
是の故に「自から度り已って当さに衆生を度すべし」と説く。
問いて曰わく、何の利を得る故に能く此の事を成じ必定地に入るや。又た何の心を以って能く是の願を発こすや。
答えて曰わく、仏の十力を得て能く此の事を成じ、必定地に入って、能く是の願を発こす。
問いて曰わく、何等か是れ仏の十力なりや。
答えて曰わく、仏は悉く一切法の因果を了達したもうを名づけて初力と為す。実の如く去・末・今に起こす所の業の果報処を知るを名づけて二力と為す。実の如く諸もろの禅定三昧を知り垢浄入出(ニッシュツ)の相を分別するを名づけて三力と為す。実の如く衆生の諸根の利鈍を知るを名づけて四力と為す。実の如く衆生の所楽は不同なることを知るを名づけて五力と為す。実の如く世間の種種なる異性を知るを名づけて六力と為す。実の如く一切処に至る道を知るを名づけて七力と為す。実の如く宿命の事を知るを名づけて八力と為す。実の如く生死の事を知るを名づけて九力と為す。実の如く漏尽の事を知るを名づけて十力と為す。是の仏の十力を知る為めの故に、大心もて願を発こし、即ち必定聚に入る。
問いて曰わく、凡そ初発心に皆な是の如きの相ありや。
答えて曰わく、或るは人有って説かく、初発心に便ち是の如きの相有り。而も実には爾らず。何以故、是の事を応さに分別すべし。定めて答うべからず。所以は何ん。一切の菩薩、初発心の時、悉く必定に入るべからず。或るは初発心の時、即ち必定に入るもの有り。或るは漸く功徳を修するもの有り。釈迦牟尼仏の如きは初発心の時に必定に入らず、後ちに功徳を修集し、燃燈仏に値い、必定に入ることを得たり。是の故に汝が一切の菩薩は初発心に便ち必定に入る、と説くも、是れを邪論と為す。
問いて曰わく、若し是れ邪論なれば、何故に汝は是の心を以って必定に入ると説くや。
答えて曰わく、菩薩の初発心に即ち必定に入り、是の心を以って能く初地を得るもの有り。是の人に因っての故に初発心に必定の中に入ると説く。
問いて曰わく、是の菩薩の初心と、釈迦牟尼仏の初発心と、是の心は云何ん。
答えて曰わく、是の心は一切の煩悩を雑えず。是の心は相続して異乗を貪らず。是の心は堅牢にして一切の外道の能く勝つ者無し。是の心は一切の衆魔も破壊すること能わず。是の心は常に能く善根を集めることを為す。是の心は能く有為と無為を知る。是の心は動ずること無く能く仏法を摂す。是の心は覆すること無く諸もろの邪行を離る。是の心は安住す、動ず可からざるか故に。是の心は無比なり、相違無きが故に。是の心は金剛の如し、諸法に通達するが故に。是の心は不尽なり、無量の福徳を集めるが故に。是の心は平等なり、一切の衆生を等しくするが故に。是の心は高下無し、差別無きが故に。是の心は清浄なり、性無垢なるが故に。是の心は垢を離る、慧炤明らかなるが故に。是の心は咎無し、深心を捨てざるが故に。是の心は広しと為す、慈しみは虚空の如きが故に。是の心は大と為す、一切の衆生を受けるが故に。是の心は無閡なり、無障の智に至るが故に。是の心は遍ねく到るなり、大悲を断ぜざるが故に。是の心は不断なり、能く正しく廻向するが故に。是の心は衆の趣向する所なり、智者の讃ずる所なるが故に。是の心は観ず可し、小乗が瞻仰するが故に。是の心は見難し、一切の衆生が覩ること能わざるが故に。是の心は破し難し、能く善く仏法に入るが故に。是の心は住と為す、一切の楽具の所住する処なるが故に。是の心は荘厳なり、福徳の資用なるが故に。是の心は選択(センチャク)なり、智慧の資用なるが故に。是の心は淳厚なり、布施を以って資用と為すが故に。是の心は大願なり、持戒の資用なるが故に。是の心は沮(ハバ)み難し、忍辱の資用なるが故に。是の心は勝ち難し、精進の資用なるが故に。是の心は寂滅なり、禅定の資用なるが故に。是の心は悩害無し、智慧の資用なるが故に。是の心は瞋閡無し、慈心深きが故に。是の心は根深し、悲心厚きが故に。是の心は悦楽なり、喜心厚きが故に。是の心は苦楽に動ぜず、捨心厚きが故に。是の心は護念なり、諸仏の神力なるが故に。是の心は相続なり、三宝断ぜざるが故に。是の如き等の無量の功徳が初の必定心を荘厳すること、無尽意品の中に広く説くが如し。「是の心は一切の煩悩を雑えず」とは、見諦・思惟所断の二百九十四の煩悩が心と和合せざる故に。名づけて不雑と為す。「是の心は相続して異乗を貪らず」とは、初心より相続し来たり声聞・辟支仏の乗を貪らず、但だ阿耨多羅三藐三菩提の為めの故に、名づけて「相続して異乗を貪らず」と為す。是の如き等の四十句の論、応さに是の如く知るべし。
問いて曰わく、汝、是の心は常なりと説く。一切の有為法は皆な無常なり。法印経の中に説くが如し、「行者は、世間は空なり、常にして変壌せざること有ること無し、と観ず」と。是の事何ぞ相違せざることを得んや。
答えて曰わく、汝、是の義に於いて正理を得ざるか故に此の難を作す。是の中に心を説いて常と為さず。此の中、口に常を説くと雖も常の義は必定の初心生ずれば必ず能く常に諸善根を集めるに休まず息(ヤ)まざることに名づく。故に名づけて常と為す。
「如来の家に生ず」とは、如来の家は則ち是れ仏家なり。如来とは、如を名づけて実と為し、来を名づけて至と為す。真実の中に至るが故に名づけて如来と為す。何等か真実なりや。所謂る、涅槃なり。虚誑(コオウ)ならざる故に是れを如実と名づく。経の中に説くが如し、
「仏、比丘に告げたまわく、第一聖諦には虚誑有ること無く、涅槃は是れなり。」
と。復た次に、如は不壊相に名づく。所謂る、諸法の実相は是れなり。来は智慧に名づく。実相の中に到り其の義に通達する故に、名づけて如来と為す。復た次に、空・無相・無作を名づけて如と為す。諸仏は三解脱門に来至し、亦た衆生をして此の門に到らしめるが故に、名づけて如来と為す。復た次に、如は四諦に名づく。一切種を以って四諦を見る故に、名づけて如来と為す。復た次に、如は六波羅蜜に名づく。所謂る、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧なり。是の六法を以って仏地に来至する故に、名づけて如来と為す。復た次に、諦・捨・滅・慧の四功徳処を名づけて如と為す。是の四法を以って仏地に来至する故に、名づけて如来と為す。復た次に、一切の仏法を名づけて如と為す。是れを以って諸仏に来至する故に、名づけて如来と為す。復た次に、一切の菩薩地、喜・浄・明・炎・難勝・現前・深遠・不動・善慧・法雲を名づけて如と為す。諸もろの菩薩は是の十地を以って阿耨多羅三藐三菩提に来至する故に、名づけて如来と為す。又た、如実の八聖道分を以って来たる故に、名づけて如来と為す。復た次に、権と智の二足にて仏に来至する故に、名づけて如来と為す。如に去って還らざる故に、名づけて如来と為す。
如来とは、所謂る、十方三世の諸仏是れなり。是の諸仏の家を名づけて如来の家と為す。今、是の菩薩は如来の道を行じ、相続して断えざる故に、名づけて如来の家に生ずと為す。又た、是の菩薩は必ず如来と成る故に、名づけて如来の家に生ずと為す。譬えば転輪聖王の家に生まれば転輪聖王の相有り、是の人は必ず転輪聖王と作るが如し。是の菩薩も亦た是の如く如来の家に生まれ是の心を発こす故に、必ず如来と成る。是れを如来の家に生ずと名づく。
「如来の家」とは、有る人言わく、是れ四功徳処、所謂る、諦・。捨・滅・慧なり。諸もろの如来は此の中より生ずる故に、名づけて如来の家と為す。有る人言わく、般若波羅蜜と及び方便とは是れ如来の家なり。助道経の中に説くが如し。
智度無極は母なり 善権方便は父なり
生ずる故に名づけて父と為し 養育する故に母と名づく
一切の世間は父母を以って家と為す。是の二は父母に似たるが故に、之れを名づけて家と為す。有る人言わく、善と慧を諸仏の家と名づく。是の二法より諸仏を出生するなり。是の二は則ち是れ一切の善法の根本なり。経の中に説くが如し、「是の二法は倶行して能く正法を成ず」と。善は是れ父、慧は是れ母なり。是の二が和合するを名づけて諸仏の家と為す。説くが如し。
菩薩の善法を父とし 智慧を以って母と為す
一切の諸もろの如来は 皆な是の二より生ず
行巻【13】
有る人言わく、般舟三昧と及び大悲を諸仏の家と名づく。此の二法より諸もろの如来を生ず。此の中、般舟三昧を父と為し、大悲を母と為す。復た次に、般舟三昧は是れ父なり。無生法忍は是れ母なり。助菩提の中に説くが如し。
般舟三昧は父なり 大悲と無生は母なり
一切の諸もろの如来は 是の二法より生ず
「家に過咎(カク)あること無し」とは、家清浄なるが故なり。清浄とは、六波羅蜜、四功徳処、方便、般若波羅蜜、善、慧、般舟三昧、大悲、諸忍なり。是の諸法は清浄にして過(トガ)有ること無き故に家清浄と名づく。是の菩薩は此の諸法を以って家と為す故に、過咎有ること無く、過咎を転ずるなり。
「世間道を転じて出世上道に入る」とは、「世間道」は即ち是れ凡夫所行の道に名づく。「転」は休息に名づく。凡夫の道とは究竟して涅槃に至ること能わず、常に生死を往来す。是れを凡夫の道と名づく。「出世間」は是の道に因って三界を出ることを得るが故に、出世間道と名づく。「上」とは妙なる故に名づけて上と為す。「入」とは正しく道を行ずる故に名づけて人と為す。是の心を以って初地に入るを歓喜地と名づく。
問いて曰わく、初地を何故に名づけて歓喜と為すや。
答えて曰わく、
初果を得るが如きは 究竟して涅槃に至る
菩薩は是の地を得て 心常に歓喜多し
自然に諸仏如来の 種を増長することを得る
是の故に此の如き人は 賢善者と名づくることを得
「初果を得るが如き」とは、人あって須陀洹道(シュダオンドウ)を得るが如きなり。善く三悪道の門を閉じ、法を見、法に入り、法を得、堅牢の法に住して傾動す可からず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずるが故に、心大いに歓喜す。設使(タトイ)睡眠し嬾惰なれども、二十九有に至らず。一毛を以って百分と為し、一分毛を以って大海の水を若しは二、三渧分け取るが如し。苦の已に滅せるは大海の水の如く、余の未だ滅せざるは二、三渧の如くして、心大いに歓喜す。菩薩は是の如く初地を得已れば如来の家に生ずと名づく。一切の天・龍・夜叉・乾闥婆(ケンダツバ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅伽(マゴラガ)・天王・梵王・沙門・婆羅門、一切の声聞・辟支仏等に共に供養恭敬される。何以故(ナントナレバ)、是の家に過咎あること無き故に。世間道を転じて出世間道に入り、但だ楽(ネガ)って仏を敬い、四功徳処を得、六波羅蜜の果報滋味なるを得る。諸仏の種を断ぜざる故に、心大いに歓喜す。是の菩薩の所有る余の苦は二、三の水渧(スイタイ)の如し、百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得、無始よりの生死の苦は二、三の水渧の如しと雖も、滅す可き所の苦は大海の水の如し。是の故に此の地を名づけて歓喜と為す。