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十住論序品

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

十住毘婆沙論 序品

<T26-20a>
十住毘婆沙論
聖者 龍樹 の 造
 後秦亀茲国三蔵鳩摩羅什の訳
  巻の第一

    序 品 第一

  一切の仏と             無上の大道と
  及び諸もろの菩薩衆の        堅心にて十地に住せると
  声聞・辟支仏の           我・我所なき者とに敬礼したてまつる
  今、十地の義を解き         仏の所説に随順せん
 問いて曰わく、汝、菩薩の十地の義を解かんと欲するに、何の欧訳を以っての故に説くや。
 答えて曰わく、地獄・畜生・餓鬼・人・天・阿修羅の六趣は険難なり、恐怖し大いに畏る。是の衆生は生死の大海を旋流し洄澓す。業に随って往来す、是れ其の濤波なり。涕涙・乳汁・流汗・膿血は是れ悪水の聚なり。瘡癩・乾枯・嘔血・淋瀝・上気・熱病・瘭疽・癰漏・吐逆・脹満、是の如き等の種種の悪病は悪羅刹と為す。憂・悲・苦・悩は水を為し、嬈動・啼哭・悲号は波浪の声を為し、苦悩の諸受は以って沃焦を為す。死は崖岸を為し。能く越える者無し。諸もろの結・煩悩・有漏の業の風は鼓扇して定まらず、諸もろの四顛倒は以つて斯誑を為す。愚癡・無明は大黒闇を為し、愛に随って凡夫は無始已末、常に其の中を行く。是の如く生死の大海を往来して、未だ曾つて彼岸に到り得ること有らず。或るは到ること有らば、兼ねて能く無量の衆生を済渡せん。是の因縁を以つて菩薩の十地の義を説く。
 問いて曰わく、若し人、菩薩の十地を修行すること能わずば、生死の大海を度ることを得ざるや。
 答えて曰わく、若し人有りて声聞・辟支仏の乗を行ぜば、是の人は生死の大海を度ることを得るも、若し人、無上の大乗を以って生死の大海を度らんと欲せば、是の人は必ず当さに具足して十地を修行すべし。
<T26-20b>
 問いて曰わく、声聞・辟支仏の乗を行ずる者は幾ばくの時にて生死の大海を度ることを得るや。
 答えて曰わく、声聞乗を行ずる者は、或るは一世を以って度ることを得る。或るは二世を以ってし、或るは是の数を過ぐ。根の利鈍に随い、また先世の宿行・因縁を以ってなり。辟支仏乗を行ずる者は、或るは七世を以って度ることを得る。或るは八世を以ってす。若し大乗を行ずる者は、或るは一恒河沙大劫、或るは二、三、四より十、百、千、万、億に至り、或るは是の数を過ぐ。然る後ちに乃ち具足して菩薩の十地を修行することを得て、仏道を成ずるも、亦た根の利鈍に随う。又だ先世の宿行・因縁を以ってす。
 問いて曰わく、声聞、辟支仏、仏は倶に彼岸に到らば解脱の中に於いて差別有りや不や。
 答えて曰わく、是の事応さに分別すべし。諸もろの煩悩に於いて解脱を得るに、是の中に差別無し。是の解脱に因って無余涅槃に入る。是の中にも亦た差別無し。相の有ること無き故に。但だ諸仏の甚深なる禅定障の解脱と、一切の法障の解脱とは、諸もろの声聞・辟支仏に於いて差別有り。説いて尽くす所に非ず、亦た譬喩を以って比と為す可からず。
 問いて曰わく、三乗の所学は皆な無余涅槃と為す。若し無余涅槃の中に差別無ければ、我等何を用いて恒河沙等の大劫に於いて生死を往来して十地を具足せん。如かじ、声聞・辟支仏の乗を以いて速やかに諸苦を滅せんには。
 答えて曰わく、是の語は弱劣にして、是れ大悲有益の言に非ず。若し諸もろの菩薩が汝の小心に効いて慈悲の意無く、精勤に十地を修すること能わざれば、諸もろの声聞・辟支仏は何に由って度ることを得ん。亦た復た三乗の差別有ること無し。所以は何ん。一切の声聞・辟支仏は皆な仏に由って出づ。若し諸仏無くば何に由って出でん。若し十地を修せずば、何ぞ諸仏有らん。若し諸仏無くば亦た法も僧も無けん。是の故に汝の所説は則ち三宝の種を断ず、是れ大人有智の言に非ず。聴察す可からず。所以は何ん。世間に四種の人有り、一には自利、二には利他、三には共利、四には不共利なり。是の中、共利とは能く慈悲を行じ他を饒益せば、名づけて上人と為す。説くが如し。
〈T26-20c〉
  世間は愍傷す可く          常に皆な自利に於いて
  一心に富楽を求め          邪見の網に堕し
  常に死の畏れを懷いて        六道の中に流転す
  大悲ある諸もろの菩薩も       能く拯うこと希有と為す
  衆生に死の至る時          能く救護する者無く
  深い黒闇に没在して         煩悩の網に縛せらる
  若し能く大悲の           心を発行する者有らば
  衆生を荷負する故に         之れが為めに重任を作す
  若し人、決定心もて         独り諸もろの勤苦を受け
  獲られる安隠の果を         而も一切と共にするは
  諸仏に称歎せられる         第一最上の人なり
  亦だ是れ希有の者にして       功徳の大蔵なり
  世間に常の言有り          家に悪子を生まず
  但だ能く己れの利を成ずるは     人を利すること能わず
  若し善子を生み           能く人を利すれば
  是れ則ち満月の如く         其の家を照明す、と
  諸もろの福徳ある人         種種の因縁を以って
  饒益するは大海の如く        又た亦た大地の如し
  世間を求めること無く        慈愍を以っての故に住するは
  此の人の生は貴しと為し       寿命は第一最なり
 是の如く声聞・辟支仏と仏とは、煩悩の解脱に差別無しと雖も、無量の衆生を度し、久しく生死に住して利益する所多く、菩薩の十地を具足するを以っての故に、大差別有り。
 問いて曰わく、仏に大悲有り、汝は弟子と為り種種に称讃す。衆生を慈愍することは誠に所説の如し。汝、種種の因縁を以って明了に分別し、開悟し、引導す。慈悲を行ずる者なり。聞けば則ち心浄く、我れ甚だ欣悦す。汝、先の偈に十地の義を説く。願わくは為めに解釈せよ。
 答えて曰わく、「敬」は恭敬の心に名づけ、「礼」は身を曲げて足に接するに名づく。「一切の諸仏」とは三世十方の仏なり。「無上の大道」とは、一切の諸法を如実に知見し通
〈26-21a〉
達して余すこと無く、更に勝る者の無き故に「無上」と曰い、大人に行ぜられる故に「大道」と曰う。「菩薩衆」とは、無上道のために発心するを名づけて「菩薩」と曰う。
 問いて曰わく、但だ発心すれば便ち是れ菩薩なりや。
 答えて曰わく、何ぞ但だ発心するを而も菩薩と為すこと有らん。若し人発心して必ず能く無上道を成ずるを乃も菩薩と名づく。或るいは但だ発心するを亦た菩薩と名づけること有り。何以故、若し初発心を離れば則も無上道を成ぜず。大経に説くが如し。「新発意の者を名づけて菩薩と為す」と。猶おし比丘、未だ道を得ずと雖も道の人と名づけるが如し。是れは名字の菩薩なり。漸漸に修習し転た実法を成ずるなり。後ちに歓喜地を釈する中に、当さに広く如実の菩薩の相を説くべし。
「衆」とは、初発心より金剛無礙の解脱道に至るまで、その中間に於いて過去・未末・現在の菩薩あり、之れを名づけて衆と為す。「堅心」とは、心が須弥山王の沮壊す可からざるが如く、亦だ大地の傾動す可からざるが如くなり。「十地に住す」とは、歓喜等の十地なり。後ちに当さに広く説くべし。
 問いて曰わく、若し菩薩に更に殊勝の功徳が有らば、何故に但だ堅心のみを称えるや。
 答えて曰わく、菩薩に堅心の功徳有らば、能く大業を成じて二乗に堕せず。軟心の者は生死を怖畏して自から念えらく、何ぞ為めに久しく生死に在りて諸もろの苦悩を受くや。如かず、疾く声聞・辟支仏の乗を以って速やかに諸苦を滅せんには、と。
 又た軟心の者は、活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焼炙地獄・大焼炙地獄・無間大地獄及び眷属の炭火地獄・沸屎地獄・焼林地獄・剣樹地獄・刀道地獄・銅柱地獄・剌棘地獄・鹹河地獄に於いて、其の中の斧鉞・刀矟・[金+予]戟・弓箭・鉄剗・椎棒・鉄槍・[金+疾][金+梨]・刀剣・鉄臼・鉄杵・鉄輪、是の如き等の治罪の器物を以つて斬斫し、割刺し、打捧し、剥裂し、繋縛し、枷鎖し、焼煮し、拷掠し、其の身を磨砕し、擣って爛熟せしむ。狐狗・虎狼・師子・悪獣が競い来たって[齒+盧]掣し其の身を食瞰す。烏鵄・鵰鷲の鉄嘴に啄まれ、悪鬼が駆逼して剣樹に縁らしむ。火山を上下せしめ、鉄火車を以つて其の頸領に加え、熱鉄の杖を以って之れを随捶す。千釘は身を釘ち、剗刀は刮削し、黒闇の中の烽
<T26-21b>
[火+孛]の臭処に入り、熱鉄は身を鍱して其の肉を臠割し、其の身皮を剥ぎて還って手足を繋ぐ。鑊湯は湧沸して其の身を炮煮し、鉄棒は頭を棒ちて脳が壊れ眼が出、鉄弗に貫著して身を挙げて火燃え、血流れて地に澆ぎ、或るは屎河に没し、刀剣槍刺の悪道を行くに、自然に刀剣空より下ることは猶おし駛雨の如し。支体を割截し、辛酸苦臭の穢悪の河に其の身を浸漬して肌肉は爛壊し、挙身堕落して唯だ骨のみ在る有り。獄卒は牽枻し、蹴蹋し、槌撲す。是の如き等の無量の苦毒有り。寿命極めて長く死を求めるも得ず。是の如きの事を若しは見、若しは聞いて、何ぞ怖れて声聞・辟支仏の乗を求めざることを得ん。
 又た寒氷地獄の頞浮陀地獄・尼羅浮陀地獄・阿波波地獄・阿羅羅地獄・阿睺睺地獄・青蓮華地獄・白蓮華地獄・雑色蓮華地獄・紅蓮華地獄・赤蓮華地獄に於いて、常に幽闃なる大怖畏の処に在り。賢聖を謗毀するは生まれて其の中に在り。形は屋舎・山陵・埠阜の如く、麁悪の冷風は声猛くして畏る可し。悲激は身を吹きて枯草を転ずるが如し。肌肉は堕落して猶おし冬葉の如し。凍剥・瘡痍・膿血は流出し、身体は不浄、臭処忍び難し。寒風は切り裂き苦毒は辛酸にして、唯だ憂悲の啼哭のみ有って更に余の心は無し。号咷し煢独にして依恃する所無し。斯の罪は皆な賢聖を誹謗するに由る。其の軟心の者は此の事を見聞して、何ぞ怖れて声聞・辟支仏の乗を求めざることを得ん。
 又た畜生、猪狗・野干・猫狸・狖鼠・獼猴・&T026022;獲・虎狼・師子・兕豹・熊羆・象馬・牛羊・蜈蚣・蚰蜒・蚯蛇・蝮蝎・黿龜・魚鼈・蛟虬・螺蜯・烏鵲・鴟梟・鷹鴿の類、是の如き鳥獣は共に相い残害す。又た&T019879;網にて伺捕し屠割すること一ならず。生まれば則ち羇絆鼻を穿ち首を絡め、重を負い、捶杖其の身を鉤刺す。皮肉は破裂し痛みは忍ぶ可からず。煙は熏じ火は焼き苦毒万端なり。死すれば則ち皮を剥ぎ其の肉を食瞰す。是の如き等の無量の苦痛有り。其の軟心の者は此の事を聞見して、何ぞ怖れて声聞・辟支仏の乗を求めざることを得ん。
〈T26-21c〉
 又た、鍼頸餓鬼・火口餓鬼・大癭餓鬼・食吐餓鬼・食盪滌餓鬼・食膿餓鬼・食屎餓鬼・浮陀鬼・鳩槃荼鬼・夜叉鬼・羅刹鬼・毘舎闍鬼・富単那鬼・迦羅富単那鬼等の諸鬼に於いて、鬚髪は蓬乱し、長爪にして大鼻、身中に虫多く、臭穢畏る可し。衆悩に切られて常に慳嫉・飢渇の苦患有り。未だ曾つて食を得ず、得ても咽むこと能わず。常に膿血・屎尿・涕唾・盪滌・不浄を求む。有力なる者の奪って食を得ず。裸形にして衣無く、寒熱は倍ます甚だし。悪風は身に吹き宛転に苦痛し、蛟虻毒虫、其の体を唼食す。腹中の飢熱は常に火の然ゆるが如し。其の軟心の者は此の事を見聞して、何ぞ怖れて声聞・辟支仏の乗を求めざることを得ん。
 又た、人中に於いて、恩愛別苦・怨憎会苦・老病死苦・貧窮求苦、是の如き等の無量の衆苦有り。及び諸天・阿修羅に退没の時の苦あり。其の軟心の者は此の諸苦を見て、何ぞ怖れて声聞・辟支仏の乗を求めざることを得ん。
 若し堅心の者は、地獄・畜生・餓鬼・天・人・阿修羅の中に諸もろの苦悩を受くるを見れば、大悲心を生じ、怖畏有ること無く、是の願を作して言わく、「是の諸もろの衆生は深く衰悩に入り、救護有ること無く、帰依する所無し。我れ滅度を得れば当さに此れ等を度すべし。大悲心を以って勤行精進し、久しからずして所願を成ずることを得ん。是の故に我れは説く、菩薩の諸もろの功徳の中、堅心は第一なり」と。
 復た次に、菩薩に八法有り。能く一切の功徳を集む。一には大悲、二には堅心、三には智慧、四には方便、五には不放逸、六には勤精進、七には常摂念、八には善知識なり。是の故に初発心の者は疾く八法を行ずること頭然を救うが如く、然る後ちに当さに諸もろの余の功徳を修すべし。
 又た此の八法に依るが故に、一切の声聞衆に四雙八輩有り、所謂る須陀洹向・須陀洹等なり。「辟支仏の我・我所無き者」とは、世間に仏無く仏法無き時に得道の者有り、辟支仏と名づく。諸もろの賢聖は我・我所の貪著を離れるが故に、名づけて「我・我所無き者」と為す、「今、十地の義を解き仏の所説に随順せん」とは、十地経の中に次第して説くを今当さに随次具さに解くべしとなり。
 問いて曰わく、汝の所説は経に異ならず、経の義已に成ずれば、何ぞ更に説くことを須いん。自から能う所を現じて名利を求めんと欲する為めなりや。
〈T26-22a〉
 答えて曰わく、
  我れ自からを現わす為めに      文辞を荘厳せず
  亦た利養を貪って          此の論を造らず
 問いて曰わく、若し爾らずば、何を以って此の論を造るや。
 答えて曰わく。
  我れ慈悲にて衆生を         饒益せんと欲するが為めなり
  余の因縁を以って          此の論を造るにあらず
 衆生が六道に於いて苦を受けて救護有ること無きを見て、此れ等を度せんと欲するが為めの故に、智慧力を以って此の論を造る。自から智力を現じて名利を求める為めにあらず。
亦だ嫉妬自高の心にて供養を求めること無し。
 問いて曰わく、衆生を慈愍し饒益する事は経の中に已に説けり。何ぞ復だ解いい徒らに自から疲苦することを須いん。
 答えて曰わく、
  但だ仏の経を見るのみにて      第一義に通達するもの有り
  善き解釈を得て           実義を解する者有り
 利根深智の人有って、仏所説の諸もろの深経を聞き即ち能く第一義に通達す。所謂る「深経」とは、即ち是れ菩薩の十地なり。「第一義」とは、即ち是れ十地の如実の義なり。諸もろの論師有り、慈悲心有って仏の所説に随って論議を造作し辞句を荘厳す。人の是れに因って十地の義に通達することを得る者有り。説くが如し。
  人には文飾にて章句を        荘厳するを好む者有り
  偈頌を好むもの有り         雑句を好む者有り
  譬喩、因縁を好んで         解を得るもの有り
  好む所は各おの同じからず      我れ随って捨てず
「章句」とは句義を荘厳するに名づく偈頌と為さざるなり。「偈」とは義趣に名づく。言辞は諸句の中に在り。或るは四言、五言、七言等なり。偈に二種有り。一には四句偈、名づけて波蔗と為す。二には六句偈、祗夜と名づく。「雑句」とは直ちに語言を説くに名づく。「譬喩」とは人の深義を解せざるを以っての故に喩えを仮りて解せしむ。喩えに或るは実、或るは仮有り。「因縁」とは所由を推尋す。其の好む所に随って之れを捨てず。
 問いて曰わく、衆生自から封う所同じからず、汝に於いては何事ぞ。
〈T26-22b〉
 答えて曰わく、我れ無上の道心を発する故に、一切を捨てず力に随って饒益す。或るは財を以ってし、或るは法を以ってす。説くが如し。
  若し大智の人有って         是の如き経を聞くを得れば
  復た解釈を須いずとも        則ち十地の義を解す
 若し福徳利根の者有って、但だ直ちに是の十地経を聞いて、即ち其の義を解すれば、解釈を須いず。是の人の為めに此の論を造らず。
 問いて曰わく、云何んが善き人と為すや。
 答えて曰わく、若し仏語を聞いて即ち能く自から解すること、丈夫の能く苦薬を服するが如し。小児は即ち蜜を以って和す。善き人とは略説するに十法有りと。何等をか十と為す。一には信、二には精進、三には念、四には定、五には善身業、六には善口業、七には善意業、八には無貪、九には無恚、十には無癡なり。説くが如し。
  若し人経文を以って         読誦することを得可きこと難きも
  若し毘婆沙を作らば         此の人には大いに益あり
 若し人、鈍根にして懈慢ならば、経文の難きを以っての故に、読誦すること能わず。「難」とは文多くして誦し難く、説き難く、諳じ難きことなり。若し荘厳の語言、雑飾・譬喩、諸もろの偈頌等を好楽するもの有らば、此れ等を利益せん為めの故に此の論を造る。是の故に汝が先に説ける「但だ仏経のみにて便も衆生を利益するに足る、何ぞ解釈を須いん」とは是の語は然らず。説くが如し。
  思惟して此の論を造り        深く善心を発こす
  此の法を然やすを以っての故に    無比にして仏を供養す
 我れ此の論を造る時、思惟分別して多く三宝及び菩薩衆を念ず。又た布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を念ずる故に、深く善心を発こす。即ち是れ自利なり。また此の正法を演説し照明する故に、名づけて「無比にして諸仏を供養す」と為す。則ち是れ利他なり。説くが如し。
  法を説いて法燈を然やし       法憧を建立するなり
  此の幢は是れ賢聖の         妙法の印相なり
  我れ今、此の論を造る        諦と捨と及び滅と慧との
  是の四功徳処を           自然にして修集す
〈T26-22c〉
 今此の論を造るは、是れ四種の功徳を自然に修集す。是の故に心に倦むこと有ること無し。「諦」とは一切の真実、之れを名づけて諦と為す。一切の実の中、仏語を真実と為す。不変壊の故なり。我れ此の仏法を解説するは即ち諦処を集む。「捨」とは布施に名づく。施に二種有り。法施と財施なり。二種の施の中、法施を勝ると為す。仏、諸もろの比丘に告げたまえるが如し。「一には当さに法施すべし。二には当さに財施すべし。二つの施の中、法施を勝ると為す」と。是の故に我れ法施の時、即ち捨処を集む。我れ若し十地の義を説く時、身口意の悪業あること無く、又た亦た欲・恚・癡の念い及び諸もろの余の結を起こさず、此の罪を障えるが故に、即ち滅処を集むと名づく。他の為めに法を解説し大智の報いを得、是の説法を以っての故に、即ち慧処を集む。是の如く此の論を造りて四功徳処を集むるなり。
 復た次に、
  我れ十地の論を説き         其の心清浄を得る
  深く是の心を貪る故に        精勤して倦まず
  若し人聞いて受持し         心又た清浄なれば
  我れも亦だ深く此れを楽い      一心に此の論を造らん
 此の二偈は其の義已に顕われ復た説くを須いず。但だ自心と他心の清浄を以っての故に。此の十地の義を造る。清浄の心は至るべき所の処に至って大果報を得ん。仏、迦留陀夷に語りたもうが如し。
 「阿難を恨むこと勿れ。若し我れ阿難を記せざるに、我が滅後に於いて阿羅漢と作るは是の清浄の心業の因縁を以っての故なり。当さに舮化自在天に於いて七反、王と為るべし」と、経の中に広く説くが如し。