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しょうくう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

証空

善恵房証空(ぜんねぼうしょうくう)(1177-1247)(治承元-宝治元)
はじめ解脱房、のちに善恵(慧)房と号した。諡(し)号は鑑知国師という。

 法然上人の高弟の一人。西山派の開祖。加賀権守源親季の長男として生まれ、9歳の春、内大臣久我通親の養子となる。1190年(建久元)14歳、元服にあたり発心して出家、法然上人の弟子となった。以後浄土教の奥義を学ぶ。以来法然上人臨終までの21年間、その許で修学することとなる。

 一度見聞すればすべてを理解してしまった、という秀才ぶりで、そうしたことからか、98年(建久9)師法然上人の『選択本願念仏集』撰述にあたっては、引用文との照らし合わせという勘文の重要な役にあたり、翌年師法然上人に代わって九条(藤原)兼実邸で『選択集』を講じた。1204年(元久元)法然が天台座主真性に対して『七箇条起請文』をあらわした時、その第四番目に署名していることは、門弟中における証空の地位を如実に物語って、門弟の中でも重要な位置にいたようである。

 法然に常随すること23年、浄土教の深義に達し、円頓菩薩戒を相伝した。このころより師の推薦によって日野の願蓮について天台学、政春について台密の研鑽を始めた。1212年(建暦2)法然の入寂に遭い、慈円の譲りをうけて、東山小坂の地より、西山善峰寺北尾往生院(三鈷寺)に移り住んだ。法然滅後4年、1215年(建保3)より嘉祿の法難の直前、26年(嘉祿3)にいたる12年の間、往生院を本拠地として京洛内外三十数か所を往復して、ほとんど連日『観経疏』を始めとする善導の著述の講説にあけくれた。その講説の記録は現在『観門要義鈔』41巻として現存する。

 27年(嘉祿3)の嘉祿の法難に際して信空とともに流罪を免がれている。29年(寛喜元)奈良当麻寺に参詣して『観経曼荼羅』を拝見し、以後その流通に努めた。43年(寛元1)2月1日西山において門弟とともに三部経などを書写供養し、来迎仏の胎内に納めた(山崎大念寺来迎仏胎内文書)。また同年後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建し、たびたび宮中に参内して西山義を講じ、菩薩戒を授けた。47年(宝治元)道覚法親王のために『鎮勧用心』を、また皇太后のために仮名法語(『女院御書』)をあらわした。同年11月22日往生の間近いことをさとり、門弟に対して菩薩戒および『観無量寿経』の要義を示し、24日天台大師講を行ない、翌日泉涌寺明観のために『菩薩戒義疏』の要義を談じ、ついに26日大衣を着し、『阿弥陀経』を読誦し、念仏合掌して白河遣迎院において入寂した。時に、71歳。門弟、遺身を西山三鈷寺に葬り、塔をたてて華台廟と称した。

 1796年(寛政8)には鑑智国師の諡号がおくられた。証空が建立した主な寺院には、西山往生院を始め、歓喜心陰浄橋寺、遣迎院などがある。証空の画像、いわゆる「思惟の像」はその浄土教学がきわめて哲学的であることを暗示している。

 その述書には大別して教相部と事相部とがあり、前者には『観門要義鈔』41巻、『観経疏他筆鈔』14巻、『観経疏大意』1巻、『観門義草案』2巻、『三部経論義記』1巻、『三縁義』1巻、『定散料簡義』1巻、『五段鈔』1巻、『安心鈔附略安心鈔』1巻、『善慧上人御法語』1巻、『白木念仏法語』1巻、『述誠』1巻、『鎮勧用心』1巻、『女院御書』2巻などがあり、後者には『当麻曼荼羅註記』10巻、『観経秘決集』20巻、『選択密要決』5巻、『四十八願要釈鈔』2巻、『修業要決』1巻、『当麻曼荼羅供式』1巻、『当麻曼荼羅八講論義鈔』1巻などがある。この後者の事相部の著述については真偽両説がある。

 その門弟は非常に多く、とくに法興浄音(ほっこうじょうおん)、円空立信(えんくうりゅうしん)、観鏡証入(かんきょうしょうにゅう)、道観証慧(どうかんしょうえ)の四師はそれぞれ流派を開いたため西山四流といわれる。このほか、実信房蓮生は常随40年といわれ、師の講説の聞書(『積学房鈔』2巻)を残している。