「げん」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(→眼) |
(→眼) |
||
1行目: | 1行目: | ||
+ | =幻= | ||
+ | <big>māyā</big> (S)<br> | ||
+ | 魔術によって作り出された現象。[[にょげん|如幻]](幻の如し)という表現で、真実には存在せず実体がないものを譬喩する。 | ||
+ | |||
+ | =患= | ||
+ | <big>ādīnava</big> (S)<br> | ||
+ | 欠陥・欠点・過失。物事の否定すべきわるい面。過患とおなじ。 | ||
+ | : 不善の失を見ず、不善の患を見ずして情に縦して不善を起こす。 | ||
+ | |||
+ | 病気を患うこと。 | ||
+ | : 熱病を患って[[げんこん|眼根]]を損す。 | ||
+ | |||
+ | =現= | ||
+ | ==āviṣkaraṇa== | ||
+ | 表す、示す、表現すること。「神通力を以って百身を化作し、身に皆な能く百の菩薩を現ず」 | ||
+ | |||
+ | ==ud-pad== | ||
+ | 現れる、出現する、顕現すること。「諸の天子は将に命終せんとする時、五種の衰相が現ず」 | ||
+ | |||
+ | ==pratyutpanna== | ||
+ | [[げんざい|現在]]の略。[[げんせ|現世]]。「過と現と未来世の心に於て如実に了知す」「現の縁に生ずるところの苦」「三際と言うは、一に前際、二に後際、三に中際なり。即ち是れ、過と未と及び現との三つの生なり」 | ||
+ | |||
+ | ==ābhāsa-prāpta== | ||
+ | [[げんぜん|現前]]に存在すること。「現の如来を供養するは、其の余の三世の一切の如来を供養することなり」「眼などの五根は唯だ現の境のみを取る」 | ||
+ | |||
+ | ==pratyakṣam== | ||
+ | 眼前に。明白に。明瞭に。「是れは現に見ることにして伝聞にあらず」 | ||
+ | |||
=眼= | =眼= | ||
+ | <big>cakṣus</big> (S)<br> | ||
+ | いろや形を見る視覚([[げんしき|眼識]])を生じる器官。[[げんこん|眼根]]のこと。働きや内容に応じて種々に分類される。それらの名称については〔瑜伽師地論3、T30 292b〕 | ||
+ | |||
+ | 三転十二行相の一々の転において生じる4つの認識(眼・智・妙・覚)の一つ。<br> | ||
+ | その内容の定義には次の諸説がある。 | ||
+ | # (『婆沙論』第一説)眼とは法智忍。 | ||
+ | # (『婆沙論』第二説)眼とは観見の意味。 | ||
+ | # (『瑜伽論』所説)<br> | ||
+ | 眼とは[[げんけんじ|現見事]]を[[のうしゅ|能取]]すること。 | ||
+ | |||
+ | =減= | ||
+ | ==anutsada: apakaraṣa== | ||
+ | へる、減少すること。小さくなること。弱まること。「諸の穢濁なくして濁世が減ず」「寿量が八万より減じて十歳に至る」「煩悩の減と業の減あり」 | ||
+ | |||
+ | ==śuṣ== | ||
+ | 干上がること。「海水が減ず」 | ||
+ | |||
+ | =還= | ||
+ | ==ā-gam== | ||
+ | かえる、もとにもどること。[[おう|往]]の対。「聚落の問を還る」「足ある者は能く往き、能く還る」 | ||
+ | |||
+ | ==nir-yat== | ||
+ | 物を返す、返還すること。「奪われた有情の物を有情に還す」 | ||
− | + | ==punar api== | |
+ | 再び。「岸に登って卵を生み、砂の内に埋めて還び海に入る」 |
2022年12月7日 (水) 11:57時点における最新版
目次
幻
māyā (S)
魔術によって作り出された現象。如幻(幻の如し)という表現で、真実には存在せず実体がないものを譬喩する。
患
ādīnava (S)
欠陥・欠点・過失。物事の否定すべきわるい面。過患とおなじ。
- 不善の失を見ず、不善の患を見ずして情に縦して不善を起こす。
病気を患うこと。
- 熱病を患って眼根を損す。
現
āviṣkaraṇa
表す、示す、表現すること。「神通力を以って百身を化作し、身に皆な能く百の菩薩を現ず」
ud-pad
現れる、出現する、顕現すること。「諸の天子は将に命終せんとする時、五種の衰相が現ず」
pratyutpanna
現在の略。現世。「過と現と未来世の心に於て如実に了知す」「現の縁に生ずるところの苦」「三際と言うは、一に前際、二に後際、三に中際なり。即ち是れ、過と未と及び現との三つの生なり」
ābhāsa-prāpta
現前に存在すること。「現の如来を供養するは、其の余の三世の一切の如来を供養することなり」「眼などの五根は唯だ現の境のみを取る」
pratyakṣam
眼前に。明白に。明瞭に。「是れは現に見ることにして伝聞にあらず」
眼
cakṣus (S)
いろや形を見る視覚(眼識)を生じる器官。眼根のこと。働きや内容に応じて種々に分類される。それらの名称については〔瑜伽師地論3、T30 292b〕
三転十二行相の一々の転において生じる4つの認識(眼・智・妙・覚)の一つ。
その内容の定義には次の諸説がある。
- (『婆沙論』第一説)眼とは法智忍。
- (『婆沙論』第二説)眼とは観見の意味。
- (『瑜伽論』所説)
減
anutsada: apakaraṣa
へる、減少すること。小さくなること。弱まること。「諸の穢濁なくして濁世が減ず」「寿量が八万より減じて十歳に至る」「煩悩の減と業の減あり」
śuṣ
干上がること。「海水が減ず」
還
ā-gam
かえる、もとにもどること。往の対。「聚落の問を還る」「足ある者は能く往き、能く還る」
nir-yat
物を返す、返還すること。「奪われた有情の物を有情に還す」
punar api
再び。「岸に登って卵を生み、砂の内に埋めて還び海に入る」