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+ | ゴータマ・ブッダは、理論を軽視したのではなかった。それどころか、むしろ、理屈をよく理解し、頭にしっかりと刻承こむことなしに、正しい修行は不可能だと、弟子たちに折りに触れて力説している。(あとで紹介する八聖道を見ればよくわかる。)ゴータマ・ブッダが不可としたのは、経験的な事実に即しない果てしない水掛け論争、理屈のための理屈にかかずらうことであった。 |
2023年12月26日 (火) 13:32時点における最新版
十難無記
ゴータマ・ブッダは、ある種の質問には沈黙して答えなかったという。これを一般に、無記とか捨置答という。そのなかでも十難無記というのが有名である。それは、つぎのような十の質問に、ゴータマ・ブッダは沈黙して答えなかったというものである。
- 世界は時間的に有限であるか。
- 世界は時間的に無限であるか。
- 世界は空間的に有限であるか。
- 世界は空間的に無限であるか。
- 身体と自己とは同じであるか。
- 身体と自己とは別ものであるか。
- ご健勝なるお方(タターガタ、如来)は死後にも存続するか。
- ご健勝なるお方は死後には存続しないか。
- ご健勝なるお方は死後に存続しかつ存続しないか。
- ご健勝なるお方は死後に存続するでもなく存続しないでもないか。
『箭喩経』によれば、哲学議論好きの青年修行者マールンキャプッタは、そうした十の質問にゴータマ・ブッダが答えず沈黙を守ったことに不満を憶え、師ゴータマ・ブッダにそれを訴えたところ、ゴータマ・ブッダはつぎのような趣旨のことを答えている。
すなわち、たとえば毒矢に射られた人がいるとしよう。そして、親族がその人を助けようとする。しかしもしその人が、この矢を射たのは誰か、この矢の材料は何か、などなど、これらすべてが判明するまでは矢を抜いてはならぬといったならば、その人はけっして助からないであろう。
四聖諦など、すでにそれによって修行を完成し、目覚めにいたり、究極の心の平安(涅槃、寂静)にいたる道を自分は説いた。その道に迷わず進むことが修行の水道である、と。
いいかえれば、なすべきことは、すでにゴータマ・ブッダが示した道にしたがって修行
に邁進し、煩悩という毒矢をただちに抜こうと懸命に努力することである。それと同じことで、果てることのない哲学的な水掛け論争に時間を費やすという愚を犯すことなく、修行に専念せよ、ということである。
ゴータマ・ブッダは、理論を軽視したのではなかった。それどころか、むしろ、理屈をよく理解し、頭にしっかりと刻承こむことなしに、正しい修行は不可能だと、弟子たちに折りに触れて力説している。(あとで紹介する八聖道を見ればよくわかる。)ゴータマ・ブッダが不可としたのは、経験的な事実に即しない果てしない水掛け論争、理屈のための理屈にかかずらうことであった。