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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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「念処」は、「satipaTThaanaani (pali)、samRty-upasthaana (skt)」の訳で、「念住」とも訳す。
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「念処」は、「<big>satipaṭṭhānāni</big> (P)、<big>samṛty-upasthāna</big> (S)」の訳で、「念住」とも訳す。パーリ語では「<big>sati</big>」(念)である。
  
 初期経典に説かれた修行法で、
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 初期経典に説かれた初心者用の修行法で、
# 身念処 肉体の不浄
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# '''身念処'''<br> いわゆる不浄観のことである。自他の身体について、それが不浄であると見ることによって、身体への執著を断じようとする。生身の身体についていえば、汚いものがいっぱいつまっていて、いつも鼻汁や大小便を垂れ流していることを、徹底的に観察する。<br> 死体についていえば、それが腐乱していくさまを九段階に分けて徹底的に観察する(九相観)。死体捨て場で坐れば、本物の死体を観察できる。それを図絵にしたものが、わが国でもかつて多数作成された「九相図」である。
# 受念処 感覚の苦
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# '''受念処'''<br> 感受作用は苦だと見ることである。感受作用から、外界とのかかわりが生じ、ここから、好悪、愛憎といった執著が生じ、迷いが生じ、苦が生じる。よって感受作用の主役である感官を制御しなければ、という認識を強める。
# 心念処 心の無常
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# '''心念処'''<br> 心は常住不変ではないので、心を頼りにすることが苦のもとになるとしっかり頭に刻みつけること。あてにならないものをあてにしてはならないということである。
# 法念処 法の無我
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# '''法念処'''<br> すべての事象は無常であるということを、しっかり頭に刻みつけること。
 
の4種の観法によって、「常・楽・我・浄」の[[してんどう|四顛倒]]を打ち破る。
 
の4種の観法によって、「常・楽・我・浄」の[[してんどう|四顛倒]]を打ち破る。
  
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 [[くしゃしゅう|倶舎宗]]などでは、この4種を順次に観ずる「別相念処」と、各々を非常・苦空・非我と観ずる「総相念処」とに分かれる。
 
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:; 「<big>smṛti</big>」を巷間「気づき」(awareness)とするが、ハッと気づくのではなく、しっかりと刻み付けるという意味であることに注意すべきである。

2024年8月17日 (土) 14:11時点における最新版

四念処

「念処」は、「satipaṭṭhānāni (P)、samṛty-upasthāna (S)」の訳で、「念住」とも訳す。パーリ語では「sati」(念)である。

 初期経典に説かれた初心者用の修行法で、

  1. 身念処
     いわゆる不浄観のことである。自他の身体について、それが不浄であると見ることによって、身体への執著を断じようとする。生身の身体についていえば、汚いものがいっぱいつまっていて、いつも鼻汁や大小便を垂れ流していることを、徹底的に観察する。
     死体についていえば、それが腐乱していくさまを九段階に分けて徹底的に観察する(九相観)。死体捨て場で坐れば、本物の死体を観察できる。それを図絵にしたものが、わが国でもかつて多数作成された「九相図」である。
  2. 受念処
     感受作用は苦だと見ることである。感受作用から、外界とのかかわりが生じ、ここから、好悪、愛憎といった執著が生じ、迷いが生じ、苦が生じる。よって感受作用の主役である感官を制御しなければ、という認識を強める。
  3. 心念処
     心は常住不変ではないので、心を頼りにすることが苦のもとになるとしっかり頭に刻みつけること。あてにならないものをあてにしてはならないということである。
  4. 法念処
     すべての事象は無常であるということを、しっかり頭に刻みつけること。

の4種の観法によって、「常・楽・我・浄」の四顛倒を打ち破る。

 後には37道品にまとめられたが、四念処だけで完結することが多い。

 倶舎宗などでは、この4種を順次に観ずる「別相念処」と、各々を非常・苦空・非我と観ずる「総相念処」とに分かれる。

 「smṛti」を巷間「気づき」(awareness)とするが、ハッと気づくのではなく、しっかりと刻み付けるという意味であることに注意すべきである。