「しゆい」の版間の差分
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+ | その原語は、cintā(思考、熟考)、cetanā(自覚、精神)、mīmāṃsā(熟考、吟味、論究)など、その外多数あるが、いずれも「思惟」と漢訳されており、それぞれの意味のとおり、対象的思惟として用いられている。<br> | ||
+ | ところが、同じく「思惟」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語で'''dhyāna'''であり、パーリ語で'''jhāna'''である。その'''jhāna'''が、中国へ入ると、最後のaが落ちて'''jhān'''となり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。 | ||
考えること。思いはからうこと。<br> | 考えること。思いはからうこと。<br> | ||
真実の道理を考える[[しょうしゆい|正思惟]]は[[はっしょうどう|八聖道]]の1つで、仏教の正しい道理に背いてよこしまに考える邪思惟(不正思惟)は八邪の一である。 | 真実の道理を考える[[しょうしゆい|正思惟]]は[[はっしょうどう|八聖道]]の1つで、仏教の正しい道理に背いてよこしまに考える邪思惟(不正思惟)は八邪の一である。 | ||
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+ | 対象的思惟は、「考える自分」と「考えられる物」、いいかえれば主観と客観とが相対して成立している思惟である。それは主として頭脳的働きであるということができる。<br> | ||
+ | これに対して全人格的思惟は、主観即客観、客観即主観、主観と客観とが一体となっている思惟であり、対象的思惟が頭脳的であるのに対して、全人格体的であるということができる。 |
2025年2月15日 (土) 16:26時点における最新版
思惟
cintā, cetanā, mīmāṃsā (S)
- 一般には「しい」と読むが、仏教では「しゆい」と読む。
その原語は、cintā(思考、熟考)、cetanā(自覚、精神)、mīmāṃsā(熟考、吟味、論究)など、その外多数あるが、いずれも「思惟」と漢訳されており、それぞれの意味のとおり、対象的思惟として用いられている。
ところが、同じく「思惟」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語でdhyānaであり、パーリ語でjhānaである。そのjhānaが、中国へ入ると、最後のaが落ちてjhānとなり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。
考えること。思いはからうこと。
真実の道理を考える正思惟は八聖道の1つで、仏教の正しい道理に背いてよこしまに考える邪思惟(不正思惟)は八邪の一である。
2つの思惟
対象的思惟は、「考える自分」と「考えられる物」、いいかえれば主観と客観とが相対して成立している思惟である。それは主として頭脳的働きであるということができる。
これに対して全人格的思惟は、主観即客観、客観即主観、主観と客観とが一体となっている思惟であり、対象的思惟が頭脳的であるのに対して、全人格体的であるということができる。