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玄奘の紹介で隆化寺の[[けいまん|恵満]]に参禅し、経論若干をたずさえて帰朝。<br> | 玄奘の紹介で隆化寺の[[けいまん|恵満]]に参禅し、経論若干をたずさえて帰朝。<br> | ||
[[660年]](斉明6)頃帰朝。[[ほうこうじ|法興寺]](別名 [[あすかでら|飛鳥寺]]・[[がんごうじ|元興寺]])の一隅に禅院を建てて住して、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。<br> | [[660年]](斉明6)頃帰朝。[[ほうこうじ|法興寺]](別名 [[あすかでら|飛鳥寺]]・[[がんごうじ|元興寺]])の一隅に禅院を建てて住して、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。<br> |
2008年1月2日 (水) 13:36時点における版
道昭
629年-700年(舒明元-文武4年) 「道照」と表記している例がある。
河内国(大阪府)丹比(たじひ)郡船連(ふねのむらじ)の出身。
653年(白雉4年)入唐して。玄奘に師事して法相教学を学ぶ。当時、玄奘はこの異国の学僧を大切にして、同室で暮らしながら指導したという。摂論教学を学んだという記録もあるが、摂大乗論に関する注釈は残っていない。
玄奘の紹介で隆化寺の恵満に参禅し、経論若干をたずさえて帰朝。
660年(斉明6)頃帰朝。法興寺(別名 飛鳥寺・元興寺)の一隅に禅院を建てて住して、日本法相教学の初伝となった(南寺伝)。
このとき将来した多くの経典類は平城遷都後、平城右京の禅院に移されて重用された。
晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。
700年遺命により、わが国で初めて火葬に付された。