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− | + | <big>vihāra</big>、<big>विहार</big> (S)、俗語で「<big>leṇa</big>」(<big>लेङ</big>)。 | |
− | + | 寺院の「院」は、中国では宿泊所の意味であり、本来出家している僧侶をその場所に宿泊させたところから名づけられた。日本では、僧侶が定住することから、「院」と付く施設はすべて仏教関係の施設ということになった。 | |
− | + | 寺院の建造物は、礼拝の対象を祀る「堂塔」と、僧衆が居住する「僧房」とに区分される。<br>「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すものであって、祖形は土饅頭型であったが、暑さを避けるために傘を差し掛けたものが定着して、中国などで堂塔となった。日本にも中国様式が入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられ、土饅頭の痕跡を残した多宝塔などが出現する。日本庭園に十一重や十三重の石塔などの多層塔を建てているが、これも同意のものである。<br>「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、Jetavana-vihāra)のように釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、次第に僧坊が建設されたり、石窟に住んだりした。中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設されたので、寺院というと、堂塔と僧坊が同所にあることが普通となる。 | |
− | + | 最初期の出家者の一時的定住地はāvāsa(住処)またはārāma(園(おん))と呼ばれた。都市郊外の土地が僧伽に寄進されたものを僧伽藍摩(そうぎゃらんま)・僧伽藍(saṃghārāma)、略して[[がらん|伽藍]]といわれた。出家者の定住化に伴って僧院(leṇa=layana (S))が形成された。精舎(しょうじゃ)(vihāra)・平覆屋・殿楼・楼房・窟院(guhā)の5種がある。精舎や窟院では広間と房室を中心として諸施設が整備された。 | |
− | + | 信仰の対象としての「仏塔」は、はじめ在家信者によって護持されたが、起塔供養の流行に伴って僧院中に建設され、塔を礼拝の対象とする支提堂(しだいどう)(祠堂)と支提窟が造られた。やがて塔の崇拝は仏像の崇拝に代わり、中国・日本の金堂(こんどう)の原型となった。 | |
− | + | 「寺(じ)」は、役所・官舎の意。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに[http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%80%E6%B4%9B%E9%99%BD%E3%80%80%E7%99%BD%E9%A6%AC%E5%AF%BA&sll=34.265247,134.207752&sspn=1.777236,2.438965&ie=UTF8&ll=34.721218,112.600148&spn=0.003452,0.004764&t=h&z=18 白馬寺](はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。「院」は寺中の別舎をいう。<br> | |
− | + | 日本で「寺」(てら)というのは、照蛍の義に由来するとの説、朝鮮語のchyol(thol礼拝)またはchar(刹)より転訛したとの説、パーリ語のthera(長老)の音写であるとの説がある。<br> | |
− | + | パーリ語のtheraが直接に日本語に影響したと考えられないとする説もあるが、奈良時代には多くのインド僧が日本に入っていることや、インドの言語が日本語に多分に影響を残していることを考えると、この説がもっとも妥当であると考えられる。 |
2017年5月9日 (火) 04:44時点における最新版
寺院
vihāra、विहार (S)、俗語で「leṇa」(लेङ)。
寺院の「院」は、中国では宿泊所の意味であり、本来出家している僧侶をその場所に宿泊させたところから名づけられた。日本では、僧侶が定住することから、「院」と付く施設はすべて仏教関係の施設ということになった。
寺院の建造物は、礼拝の対象を祀る「堂塔」と、僧衆が居住する「僧房」とに区分される。
「堂塔」は、釈迦もしくは仏陀の墓を指すものであって、祖形は土饅頭型であったが、暑さを避けるために傘を差し掛けたものが定着して、中国などで堂塔となった。日本にも中国様式が入ってきて、三重塔・五重塔・七重塔などが立てられ、土饅頭の痕跡を残した多宝塔などが出現する。日本庭園に十一重や十三重の石塔などの多層塔を建てているが、これも同意のものである。
「僧坊」は、インドではヴィハーラと名づけられて、僧侶が宿泊する場所であり、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ、Jetavana-vihāra)のように釈迦在世の時代から寄進された土地を指したが、次第に僧坊が建設されたり、石窟に住んだりした。中国に入ると僧坊が建設されることが多くなり、堂塔が併設されたので、寺院というと、堂塔と僧坊が同所にあることが普通となる。
最初期の出家者の一時的定住地はāvāsa(住処)またはārāma(園(おん))と呼ばれた。都市郊外の土地が僧伽に寄進されたものを僧伽藍摩(そうぎゃらんま)・僧伽藍(saṃghārāma)、略して伽藍といわれた。出家者の定住化に伴って僧院(leṇa=layana (S))が形成された。精舎(しょうじゃ)(vihāra)・平覆屋・殿楼・楼房・窟院(guhā)の5種がある。精舎や窟院では広間と房室を中心として諸施設が整備された。
信仰の対象としての「仏塔」は、はじめ在家信者によって護持されたが、起塔供養の流行に伴って僧院中に建設され、塔を礼拝の対象とする支提堂(しだいどう)(祠堂)と支提窟が造られた。やがて塔の崇拝は仏像の崇拝に代わり、中国・日本の金堂(こんどう)の原型となった。
「寺(じ)」は、役所・官舎の意。西域僧が中国に仏教を伝えた時、はじめ鴻臚寺(こうろじ)に滞在し、のちに白馬寺(はくばじ)を建てて住まわせた。以後、宿泊所に因んで僧の住処を「寺」と呼ぶようになった。「院」は寺中の別舎をいう。
日本で「寺」(てら)というのは、照蛍の義に由来するとの説、朝鮮語のchyol(thol礼拝)またはchar(刹)より転訛したとの説、パーリ語のthera(長老)の音写であるとの説がある。
パーリ語のtheraが直接に日本語に影響したと考えられないとする説もあるが、奈良時代には多くのインド僧が日本に入っていることや、インドの言語が日本語に多分に影響を残していることを考えると、この説がもっとも妥当であると考えられる。