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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

 
 
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京都東山知恩院あたり一帯の地名であり、法然上人が専修念仏を創唱された吉水の草庵や、入滅された大谷の禅房はこの地にあった。<br>
 
京都東山知恩院あたり一帯の地名であり、法然上人が専修念仏を創唱された吉水の草庵や、入滅された大谷の禅房はこの地にあった。<br>
[[1262年]](弘長2)、親鸞聖人の遺骨をこの地に納め、[[1272年]](文永9)、吉水の北辺に改葬して廟堂を建てた。後に、これを大谷本願寺と称した。現在の崇泰院のあたりである。<br>
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 1262年(弘長2)、親鸞聖人の遺骨をこの地に納め、1272年(文永9)、吉水の北辺に改葬して廟堂を建てた。後に、これを大谷本願寺と称した。現在の崇泰院のあたりである。<br>
[[1465年]](寛正6)、大谷本願寺は、比叡山の僧兵によって破却された。<br>
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 1465年(寛正6)、大谷本願寺は、比叡山の僧兵によって破却された。<br>
[[1603年]](慶長8)10月、廟所は東山五条坂の地に移転した。
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 1603年(慶長8)10月、廟所は東山五条坂の地に移転した。

2017年7月18日 (火) 13:51時点における最新版

大谷本願寺

おおたにほんがんじ、大谷は元々「豅」と書く。

京都東山知恩院あたり一帯の地名であり、法然上人が専修念仏を創唱された吉水の草庵や、入滅された大谷の禅房はこの地にあった。
 1262年(弘長2)、親鸞聖人の遺骨をこの地に納め、1272年(文永9)、吉水の北辺に改葬して廟堂を建てた。後に、これを大谷本願寺と称した。現在の崇泰院のあたりである。
 1465年(寛正6)、大谷本願寺は、比叡山の僧兵によって破却された。
 1603年(慶長8)10月、廟所は東山五条坂の地に移転した。