「えこういん」の版間の差分
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
(新しいページ: '=回向院= 東京都墨田区両国。浄土宗。国豊山無縁寺と号する。 明暦3年(1657)江戸大火の死者を葬り漏沢園(無縁塚)と称したが...') |
(→回向院) |
||
3行目: | 3行目: | ||
明暦3年(1657)江戸大火の死者を葬り漏沢園(無縁塚)と称したが、増上寺・貴屋が幕府の援助を得て寺を建て、諸宗山無縁寺と号した。<br> | 明暦3年(1657)江戸大火の死者を葬り漏沢園(無縁塚)と称したが、増上寺・貴屋が幕府の援助を得て寺を建て、諸宗山無縁寺と号した。<br> | ||
− | 万治年間(1658-61) | + | 万治年間(1658-61)牢死・刑死者のために境内に三仏堂を建て、寛文7年(1667)小塚原刑場に常行庵を建てて当寺の別院とした。<br> |
天明元年(1781)以来、死者供養のため境内で勧進相撲が興行され、後に一定の興行地となって明治42年(1909)に両国国技館が建設された。 | 天明元年(1781)以来、死者供養のため境内で勧進相撲が興行され、後に一定の興行地となって明治42年(1909)に両国国技館が建設された。 | ||
また境内には山東京伝や鼠小僧次郎吉の墓もある。 | また境内には山東京伝や鼠小僧次郎吉の墓もある。 |
2017年5月9日 (火) 12:27時点における最新版
回向院
東京都墨田区両国。浄土宗。国豊山無縁寺と号する。
明暦3年(1657)江戸大火の死者を葬り漏沢園(無縁塚)と称したが、増上寺・貴屋が幕府の援助を得て寺を建て、諸宗山無縁寺と号した。
万治年間(1658-61)牢死・刑死者のために境内に三仏堂を建て、寛文7年(1667)小塚原刑場に常行庵を建てて当寺の別院とした。
天明元年(1781)以来、死者供養のため境内で勧進相撲が興行され、後に一定の興行地となって明治42年(1909)に両国国技館が建設された。
また境内には山東京伝や鼠小僧次郎吉の墓もある。