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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(阿含)
 
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 梵語「アーガマ〈aagama〉」の音写。「来ること」の意味である。
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 梵語「アーガマ〈'''āgama'''〉」の音写。「来ること」の意味である。
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 この「来ること」という意味から、「伝承」の意味となり、さらにいっさいの法の帰するところという意味で、仏陀の説法を輯録した聖教をさすようになった。「'''āgama'''」とは、英語の go やドイツ語の gehen などと同じ「行く」という語源と意味をもつ、サンスクリット語・パーリ語の gam に、「こちらへ」をあらわす接頭辞の ā を付したものである。つまり「伝承されたもの」「伝来された諸経典」という意味であり、漢訳されて「阿含」と音写されたのである。
  
 この「来ること」という意味から、「伝承」の意味となり、さらにいっさいの法の帰するところという意味で、仏陀の説法を輯録した聖教をさすようになった。<br>
 
 
 この意味で、仏教のすべての経典は「阿含」とよばれてよいわけであり、一般に「阿含」とは「聖教」「聖典」の意味である。<br>
 
 この意味で、仏教のすべての経典は「阿含」とよばれてよいわけであり、一般に「阿含」とは「聖教」「聖典」の意味である。<br>
 ところが、今日では「阿含」という文字は、主として小乗の経典をいう時に用いられる。すなわち「阿含経」という場合は、小乗経典の意味である。このように「阿含」を小乗教を代表するもののように用いることは、すでに天台大師の五時教判の「鹿苑時」を「阿含時」ともいう用法にも示され古い伝統をもっている。
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 ところが、今日では「阿含」という文字は、主として小乗の経典をいう時に用いられる。すなわち「[[あごんぎょう|阿含経]]」という場合は、小乗経典の意味である。このように「阿含」を小乗教を代表するもののように用いることは、すでに[[てんだいだいし|天台大師]]の[[ごじきょうはん|五時教判]]の「[[ろくおんじ|鹿苑時]]」を「阿含時」ともいう用法にも示され古い伝統をもっている。

2024年8月18日 (日) 17:03時点における最新版

阿含

 梵語「アーガマ〈āgama〉」の音写。「来ること」の意味である。

 この「来ること」という意味から、「伝承」の意味となり、さらにいっさいの法の帰するところという意味で、仏陀の説法を輯録した聖教をさすようになった。「āgama」とは、英語の go やドイツ語の gehen などと同じ「行く」という語源と意味をもつ、サンスクリット語・パーリ語の gam に、「こちらへ」をあらわす接頭辞の ā を付したものである。つまり「伝承されたもの」「伝来された諸経典」という意味であり、漢訳されて「阿含」と音写されたのである。

 この意味で、仏教のすべての経典は「阿含」とよばれてよいわけであり、一般に「阿含」とは「聖教」「聖典」の意味である。
 ところが、今日では「阿含」という文字は、主として小乗の経典をいう時に用いられる。すなわち「阿含経」という場合は、小乗経典の意味である。このように「阿含」を小乗教を代表するもののように用いることは、すでに天台大師五時教判の「鹿苑時」を「阿含時」ともいう用法にも示され古い伝統をもっている。