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「原始仏教の慈悲」の版間の差分

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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: yaṃ bhikkhave satthārā karaṇīyaṃ hitesinā anukampakena anukampaṃ upādāya, kataṃ vo taṃ mayā. 〔''Majjima-Nikāya.''. I, p.118〕
 
: yaṃ bhikkhave satthārā karaṇīyaṃ hitesinā anukampakena anukampaṃ upādāya, kataṃ vo taṃ mayā. 〔''Majjima-Nikāya.''. I, p.118〕
 
: 如<sub>R</sub>師為<sub>2</sub>弟子<sub>1</sub>起<sub>2</sub>大慈哀<sub>1</sub>憐念愍傷、求<sub>2</sub>義及饒益<sub>1</sub>求<sub>2</sub>安隠快楽<sub>1</sub>者<sub>L</sub>。我今已作。〔''中阿含経''25、T1-590a〕
 
: 如<sub>R</sub>師為<sub>2</sub>弟子<sub>1</sub>起<sub>2</sub>大慈哀<sub>1</sub>憐念愍傷、求<sub>2</sub>義及饒益<sub>1</sub>求<sub>2</sub>安隠快楽<sub>1</sub>者<sub>L</sub>。我今已作。〔''中阿含経''25、T1-590a〕
'''そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみ(kāruññatā)により、仏の眼を以て世間を見わたした。'''』だから出家して仏教教団に入って修行者(比丘)となった者は世人のために法を説かねばならぬ。『'''慈悲により同情により憐れみによって、他人のために法を説く。'''』説法ということは、教団人にとって重大な義務であった。教団人は世人にそむくために出家したのではなくて、世人を真実に愛するが故に出家したのであらねばならぬ。<br>
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 そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみ(kāruññatā)により、仏の眼を以て世間を見わたした。〔''SN''. I, p.138; ''MN''. I, p.169〕
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だから出家して仏教教団に入って修行者(比丘)となった者は世人のために法を説かねばならぬ。
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 慈悲により同情により憐れみによって、他人のために法を説く。kāruññaṃ paṭicca anudayaṃ paṭicca anukampaṃ dhammaṃ deseti, 〔''SN''. II, p.199〕
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説法ということは、教団人にとって重大な義務であった。教団人は世人にそむくために出家したのではなくて、世人を真実に愛するが故に出家したのであらねばならぬ。<br>
 
 かかる道理をもしも後世の解釈を用いて表現するならば、ひとびとに対する慈悲の故に理法としての「宗」を「教」として説くのである。
 
 かかる道理をもしも後世の解釈を用いて表現するならば、ひとびとに対する慈悲の故に理法としての「宗」を「教」として説くのである。
  
 
 仏教やジャイナ教の興起した西紀前6世紀または5世紀になって何故に急に慈悲を説く思想が現われ出たか、ということである。恐らく当時マガダ国を中心として農業生産が増大し、工業も進展して、少くとも上層階級には生活のゆとりが出来て反省の機会が得られたことがまず考えられる。また生産の増大は商業の発展を必要ならしめるが、それを確保するためには商業路の安全ということが第一要件であった。そこで争闘を避け平和な生活を求める思想が、特に当時の王権及び商業資本の歓迎するところになったと考えられる。
 
 仏教やジャイナ教の興起した西紀前6世紀または5世紀になって何故に急に慈悲を説く思想が現われ出たか、ということである。恐らく当時マガダ国を中心として農業生産が増大し、工業も進展して、少くとも上層階級には生活のゆとりが出来て反省の機会が得られたことがまず考えられる。また生産の増大は商業の発展を必要ならしめるが、それを確保するためには商業路の安全ということが第一要件であった。そこで争闘を避け平和な生活を求める思想が、特に当時の王権及び商業資本の歓迎するところになったと考えられる。

2021年8月12日 (木) 16:25時点における版

 最初期の仏教において、人間の宗教的実践の基本的原理として特に強調したことは、慈悲であった。
 すでに原始仏教において母がおのが身命を忘れて子を愛するのと同じ心情を以て、万人を、いな、一切の生きとし生けるものどもを愛せよということを、強調している。

 あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するがごとく、そのごとく一切の生けるものに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意(mettā aparimānā)を起すべし。
 上に下にまた横に、障擬なき怨恨なき敵意なき(慈しみを行うべし)。
 立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、睡眠をはなれたる限りは、この(慈しみの)心づかいを確立せしむくし。
 この(仏教の)中にては、この状態を(慈しみの)崇高な境地(brahma vihāra 梵住)と呼ぶ。〔Suttanipāta Mettāsutta〕

 また父母親族が自分にしてくれるよりも以上の善を他人になすように心がけねぱならぬという。〔〕  慈悲は一切の生きとし生けるものどもに及び、たとい微小なる一匹の虫けらといえども、これをいつくしまなければならない。

思いを正しくして「無量の慈しみ」(mettā appamānā)を修する者あらぱ、
かれは執着の滅亡を見つつあれば、幾多の束縛は微細となる。
悪心あることなく、たとい一匹の生きものなりとも慈しむ(mettāyati)ものあらぱ、
かれはそれによって善人となる。
こころに一切の生けるものをあわれみつつ(anukampaṃ)、聖者は多くの功徳をつくる。
生きものに充ちみちたる大地を征服して、馬祠・人祠・擲捧祠・ソーマ祠・無遮会の主催者としてへ廻る聖王も、
慈しみにみちたるこころ(metta-citta)をよく修したる人の十六分の一だにも値せず。
月光に対する群がる星くずのごとし。
〔他のものを〕殺すことなく、殺さしむることなく、勝つことなく、勝たしむることなく、一切の生きとし生けるものどもに慈しみのこころあらぱ、
何人もかれに怨みをいだくことなし。  〔Itiv 27. Gāthā. AN. IV, pp.150-151G.〕

修行者は悲しみの心ある者(mettacitta)であらねばならぬ。〔Therag. 974. Majjima-Nikāya. I. pp.18; 123〕

われは万人の友なり。万人のなかまなり、一切の生きとし生けるものの同情者なり、慈しみのこころを修して、つねに無傷害を楽しむ。  〔Therag. 648.〕
弱きも強きも(あらゆる生きとし生けるものどもに)慈しみを以て接せよ。  〔Sutta-nipāta. 967〕

 一切の生きとし生けるものを慈しみあわれむという思想は、当時の社会において実際に有力な動向としてはたらいていた。その実際のあととしては、アショーカ王の詔勅などの碑文を挙げることができる。西北方インドのNagariの近くに発見された石の刻文には、"…sarva bhūtānāṃ dayārtham…"(一切衆生をあわれむために)とある。
 ジャイナ教でも『修行者は一切の生きとし生けるものにあわれみ、同情あれ』と説き、『法に安立して一切の生きものに対してあわれみあれ』などと教えている。
 叙事詩においても同様に教えている。

他のものを害せず、与え、常に真実を語るべし。
すべての者に対して慈しみあり(dayāvat)、あわれみを感ずるもの(karuṇavedin)である。  〔Mahābhārata III, 207, v.94〕
一切の生きとし生けるものを害すべからず。友情の道を行ぜよ。
この世の生命を得ては、決して復讎(怨み)を行うことなかれ。  〔MBh. III, 213, v.34〕

 だから仏教はインド一般に新たに起って来たかかる思想を受けてそれを発展せしめたということができるであろう。
 初期の仏教では、特に他人のために教を説いて迷いを除き、正しいさとりを得しめることが慈悲にもとづく重要な活動とされている。釈尊が成道後に、梵天のすすめに応じて世の人々のために法を説かれたのは、慈悲にもとづくのである。

 yaṃ bhikkhave satthārā karaṇīyaṃ hitesinā anukampakena anukampaṃ upādāya, kataṃ vo taṃ mayā. 〔Majjima-Nikāya.. I, p.118〕
 如R師為2弟子12大慈哀1憐念愍傷、求2義及饒益12安隠快楽1L。我今已作。〔中阿含経25、T1-590a〕
 そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみ(kāruññatā)により、仏の眼を以て世間を見わたした。〔SN. I, p.138; MN. I, p.169〕

だから出家して仏教教団に入って修行者(比丘)となった者は世人のために法を説かねばならぬ。

 慈悲により同情により憐れみによって、他人のために法を説く。kāruññaṃ paṭicca anudayaṃ paṭicca anukampaṃ dhammaṃ deseti, 〔SN. II, p.199〕

説法ということは、教団人にとって重大な義務であった。教団人は世人にそむくために出家したのではなくて、世人を真実に愛するが故に出家したのであらねばならぬ。
 かかる道理をもしも後世の解釈を用いて表現するならば、ひとびとに対する慈悲の故に理法としての「宗」を「教」として説くのである。

 仏教やジャイナ教の興起した西紀前6世紀または5世紀になって何故に急に慈悲を説く思想が現われ出たか、ということである。恐らく当時マガダ国を中心として農業生産が増大し、工業も進展して、少くとも上層階級には生活のゆとりが出来て反省の機会が得られたことがまず考えられる。また生産の増大は商業の発展を必要ならしめるが、それを確保するためには商業路の安全ということが第一要件であった。そこで争闘を避け平和な生活を求める思想が、特に当時の王権及び商業資本の歓迎するところになったと考えられる。