「さんてんじゅうにぎょうそう」の版間の差分
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この2種の十二の中に十二行法輪(法華経)、'''十二行相'''(倶舎論)と言えば行の十二をもって解釈するのを本義とする。天台の文句は教行の2義を挙げるが、『倶舎論玄賛』は単に行について解釈している。 | この2種の十二の中に十二行法輪(法華経)、'''十二行相'''(倶舎論)と言えば行の十二をもって解釈するのを本義とする。天台の文句は教行の2義を挙げるが、『倶舎論玄賛』は単に行について解釈している。 | ||
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+ | 証 苦集聖諦を、すでに断じ終えた。<br> | ||
+ | 三、示 苦滅聖諦は、このようなものである。<br> | ||
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+ | 四、示 苦滅道聖諦は、このようなものである。<br> | ||
+ | 勧 苦滅道聖諦を、繰り返し修すべきである。<br> | ||
+ | 証 苦滅道聖諦を、繰り返し修し終えた。 |
2023年10月4日 (水) 07:56時点における版
三転法輪十二行
「三転十二行相」と初期経典では言う。
これに2種がある。
一に教の十二、四諦の一々に示勧証の三転があって、十二の教法となるもの。
二に行の十二、三転の一々に眼智明覚の4種の智を生ずるもの。若しこれを四諦各別に論ずれば48行あり。眼智明覚とは見道の十六心の中、四法智忍を眼とし、四法智を智とし、四類智忍を明とし、四類智を覚とす。これ見道について解す。又、眼は観見の義、智は決断の義、明は照了の義、覚は警察の義(以上の2義は『婆沙論』)。又眼は総体の智に名づけ、智明覚の3は次第のごとく果現未を知るのに名づける(慈恩大師の義)。
この後の一義は見修無学の3道に通じて解釈する。
- 眼は謂わく法忍智。智は謂わく諸の法智。明は謂わく類忍智。覚は謂わく諸の類智なり。復た次に眼これ観見の義。智これ決断の義。明これ照了の義。覚これ警察の義。〔大毘婆沙論79、T27.0411a〕
この2種の十二の中に十二行法輪(法華経)、十二行相(倶舎論)と言えば行の十二をもって解釈するのを本義とする。天台の文句は教行の2義を挙げるが、『倶舎論玄賛』は単に行について解釈している。
一、示 苦聖諦とは、このようなものである。
勧 苦聖諦を、完全に知るべきである。
証 苦聖諦を、すでに完全に知り終えた。
二、示 苦集聖諦は、このようなものである。
勧 苦集聖諦を、断ずべきである。
証 苦集聖諦を、すでに断じ終えた。
三、示 苦滅聖諦は、このようなものである。
勧 苦滅聖諦を、目の当たりに見るべきである。
証 苦滅聖諦を、すでに目の当たりに見終えた。
四、示 苦滅道聖諦は、このようなものである。
勧 苦滅道聖諦を、繰り返し修すべきである。
証 苦滅道聖諦を、繰り返し修し終えた。