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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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(空也)
 
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 はじめ在俗の修行者として諸国を遊行(ゆぎょう)遍歴した。阿弥陀仏の名を唱えながら、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にした。<br>
 
 はじめ在俗の修行者として諸国を遊行(ゆぎょう)遍歴した。阿弥陀仏の名を唱えながら、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にした。<br>
 
 20歳のころ尾張(愛知県)の国分寺で[[ていはつ|剃髪]]し、空也と名乗る。その後も諸国行脚(あんぎゃ)をつづけた。<br>
 
 20歳のころ尾張(愛知県)の国分寺で[[ていはつ|剃髪]]し、空也と名乗る。その後も諸国行脚(あんぎゃ)をつづけた。<br>
 938年(天慶1)、36歳のとき京都に移って、市中に乞食(こつじき)し、施物(せもつ)を貧民に与えるのを常とした。<br>
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 938年(天慶1)、36歳のとき京都に移って、市中に[[こつじき|乞食]]し、[[せもつ|施物]]を貧民に与えるのを常とした。<br>
 948年(天暦2)、46歳のとき比叡山にのぼって、天台座主(ざす)の延昌について受戒し、以後貴族の外護も受けるようになった。<br>
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 948年(天暦2)、46歳のとき比叡山にのぼって、天台[[ざす|座主]]の[[えんしょう|延昌]]について受戒し、以後貴族の外護も受けるようになった。<br>
 
 48歳のとき金泥般若経1部600巻の書写を発願し、14年をかけて完成している。
 
 48歳のとき金泥般若経1部600巻の書写を発願し、14年をかけて完成している。
  
 
 京都東山の西光寺(のちの[[ろっぱらみつじ|六波羅蜜寺]])で入滅。
 
 京都東山の西光寺(のちの[[ろっぱらみつじ|六波羅蜜寺]])で入滅。

2020年5月21日 (木) 16:51時点における最新版

空也

『こうや』とも読む。903(延喜3)-972(天禄3)

 平安中期の念仏聖。名を光勝といい、「市聖(いちひじり)」「阿弥陀聖」などと呼ばれた。醍醐天皇の第5皇子とも伝えられる。
 はじめ在俗の修行者として諸国を遊行(ゆぎょう)遍歴した。阿弥陀仏の名を唱えながら、各地で道を拓き、井戸や池を掘り、橋を架け、野原に遺棄された死骸を火葬にした。
 20歳のころ尾張(愛知県)の国分寺で剃髪し、空也と名乗る。その後も諸国行脚(あんぎゃ)をつづけた。
 938年(天慶1)、36歳のとき京都に移って、市中に乞食し、施物を貧民に与えるのを常とした。
 948年(天暦2)、46歳のとき比叡山にのぼって、天台座主延昌について受戒し、以後貴族の外護も受けるようになった。
 48歳のとき金泥般若経1部600巻の書写を発願し、14年をかけて完成している。

 京都東山の西光寺(のちの六波羅蜜寺)で入滅。