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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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 雑修とはこれに対して、他の仏・菩薩につかえる雑行(ぞうぎょう)、あるいは五正行のうちの正定業(しょうじょうごう)である称名以外の行為(助業(じょごう))を往生の因として称名と共に修める(助正兼行)のをいう。
 
 雑修とはこれに対して、他の仏・菩薩につかえる雑行(ぞうぎょう)、あるいは五正行のうちの正定業(しょうじょうごう)である称名以外の行為(助業(じょごう))を往生の因として称名と共に修める(助正兼行)のをいう。
  
 専修や雑修を執(と)りたもつ心を専雑の執心、助正兼行の心を助正間雑心潅識浄という。[[ぜんどう|善導]]の『[[おうじょうらいさん|往生礼讃]]』には専修と雑修との長所短所(専雑の得失(せんぞうのとくしつ))を論じて、専修の4得、雑修の13失をあげ、専修のものは往生が確定的であることを千無一失、雑修のものは往生が不可能なことを千中無一、万不一生とする。
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 専修や雑修を執(と)りたもつ心を専雑の執心、助正兼行の心を助正間雑心潅識浄という。[[ぜんどう|善導]]の『[[おうじょうらいさんげ|往生礼讃偈]]』には専修と雑修との長所短所(専雑の得失(せんぞうのとくしつ))を論じて、専修の4得、雑修の13失をあげ、専修のものは往生が確定的であることを千無一失、雑修のものは往生が不可能なことを千中無一、万不一生とする。

2014年3月5日 (水) 16:36時点における最新版

専修

もっぱら一事を修めるのを専修、反対に、他のことをまじえて修めるのを雑修という。

 浄土教で、極楽に生まれようとして、その原因となる行為を修めるのについていう語。

 専修とは、行為の内容や心の持ち方が浄土に生まれるための正しい道にかなって、ひたすらに進むことで、阿弥陀仏のみにつかえる行為(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の五正行)、あるいは五正行のうちの称名を正しい信心で修めるのをいう。
 雑修とはこれに対して、他の仏・菩薩につかえる雑行(ぞうぎょう)、あるいは五正行のうちの正定業(しょうじょうごう)である称名以外の行為(助業(じょごう))を往生の因として称名と共に修める(助正兼行)のをいう。

 専修や雑修を執(と)りたもつ心を専雑の執心、助正兼行の心を助正間雑心潅識浄という。善導の『往生礼讃偈』には専修と雑修との長所短所(専雑の得失(せんぞうのとくしつ))を論じて、専修の4得、雑修の13失をあげ、専修のものは往生が確定的であることを千無一失、雑修のものは往生が不可能なことを千中無一、万不一生とする。