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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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pariniSpanna-svabhaava (skt)、「円成実自性」ともいう。「円成実」と略す。
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 三つの存在のありようである[[さんしょう|三性]]の一つ。あらゆる存在の真実の本性として変化することなく常に存在し続ける究極の真理をいう。<br>
 
 三つの存在のありようである[[さんしょう|三性]]の一つ。あらゆる存在の真実の本性として変化することなく常に存在し続ける究極の真理をいう。<br>
 
 実体としてあると考えられた自己と物とへの執着が心の真実の中からなくなったときに顕れてくる心の真実のありよう、すなわち[[しんにょ|真如]]のこと。
 
 実体としてあると考えられた自己と物とへの執着が心の真実の中からなくなったときに顕れてくる心の真実のありよう、すなわち[[しんにょ|真如]]のこと。
  
 原語「pariniSpanna」の原意である「完成された」ということからみれば、修行によって完全に清浄になった心をいう。
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 原語「pariniṣpanna」の原意である「完成された」ということからみれば、修行によって完全に清浄になった心をいう。
  
 
 三性の存在性については、遍計所執性が「都無」、依他起性が「仮有」といわれるのに対して、円成実性の存在性は「実有」といわれる。
 
 三性の存在性については、遍計所執性が「都無」、依他起性が「仮有」といわれるのに対して、円成実性の存在性は「実有」といわれる。
  
 性・自性にあたるsvabhaavaをlakSaNaに置きかえて「pariniSpanna-lakSaNa」といい、円成実相ともいう。
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 性・自性にあたるsvabhāvaをlakṣaṇaに置きかえて「pariniṣpanna-lakṣaṇa」といい、円成実相ともいう。
  
:云何諸法圓成實相。謂一切法平等眞如。於此眞如。諸菩薩衆勇猛精進爲因縁故。如理作意無倒思惟。爲因縁故乃能通達。於此通達漸漸修5集。乃至無上正等菩提方證圓滿。    〔解深密経 T16,693a〕
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云何諸法圓成實相。謂一切法平等眞如。於此眞如。諸菩薩衆勇猛精進爲因縁故。如理作意無倒思惟。爲因縁故乃能通達。於此通達漸漸修5集。乃至無上正等菩提方證圓滿。    〔[[げじんみっきょう|解深密経]] T16-693a〕
  
:二空所顯、圓滿・成就・諸法實性、名圓成實。    〔成唯識論 T31-46b〕
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二空所顯、圓滿・成就・諸法實性、名圓成實。    〔[[じょうゆいしきろん|成唯識論]] T31-46b〕
  
:依他起上、彼所妄執我法倶空。此空所顯識等眞性、名圓成實。    〔成唯識論 T31-46c〕
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依他起上、彼所妄執我法倶空。此空所顯識等眞性、名圓成實。    〔成唯識論 T31-46c〕

2017年5月9日 (火) 04:34時点における版

円成実性

pariniṣpanna-svabhāva (S)、「円成実自性」ともいう。「円成実」と略す。

 三つの存在のありようである三性の一つ。あらゆる存在の真実の本性として変化することなく常に存在し続ける究極の真理をいう。
 実体としてあると考えられた自己と物とへの執着が心の真実の中からなくなったときに顕れてくる心の真実のありよう、すなわち真如のこと。

 原語「pariniṣpanna」の原意である「完成された」ということからみれば、修行によって完全に清浄になった心をいう。

 三性の存在性については、遍計所執性が「都無」、依他起性が「仮有」といわれるのに対して、円成実性の存在性は「実有」といわれる。

 性・自性にあたるsvabhāvaをlakṣaṇaに置きかえて「pariniṣpanna-lakṣaṇa」といい、円成実相ともいう。

云何諸法圓成實相。謂一切法平等眞如。於此眞如。諸菩薩衆勇猛精進爲因縁故。如理作意無倒思惟。爲因縁故乃能通達。於此通達漸漸修5集。乃至無上正等菩提方證圓滿。    〔解深密経 T16-693a〕
二空所顯、圓滿・成就・諸法實性、名圓成實。    〔成唯識論 T31-46b〕
依他起上、彼所妄執我法倶空。此空所顯識等眞性、名圓成實。    〔成唯識論 T31-46c〕