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出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

(浄土)
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'''穢土'''(えど)に対していわれ、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界などとも言われる。
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 '''穢土'''(えど)に対していわれ、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界などとも言われる。
  
'''穢土'''とは穢国ともいわれるように穢悪(えあく)に満ちた世界。『''[[ゆいまきょう|維摩経]]''』仏国品に「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」と、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。<br>
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 '''穢土'''とは穢国ともいわれるように穢悪(えあく)に満ちた世界。『''[[ゆいまきょう|維摩経]]''』仏国品に「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」と、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。<br>
''[[おうじょうろんちゅう|往生論註]]''』巻上では「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、穢土というのは虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって、丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界だという。<br>
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 『''[[おうじょうろんちゅう|往生論註]]''』巻上では「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、穢土というのは虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって、丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界だという。<br>
ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
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 ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
  
このように精神的物質的に、何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、'''浄土'''とは'''清浄'''であり、'''清涼'''な世界である。このような清浄の世界は、正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。<br>
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 このように精神的物質的に、何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、'''浄土'''とは'''清浄'''であり、'''清涼'''な世界である。このような清浄の世界は、正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。<br>
''維摩経''』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『''心地観経''』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄は、そこに住む人の心によって決定づけられる。
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 『''維摩経''』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『''心地観経''』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄は、そこに住む人の心によって決定づけられる。
  
そこで、真実の'''浄土'''は'''仏'''の住居する処であり、成仏せんがために精進する'''菩薩'''の国土である。この点で、浄土は'''仏土'''である。<br>
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 そこで、真実の'''浄土'''は'''仏'''の住居する処であり、成仏せんがために精進する'''菩薩'''の国土である。この点で、浄土は'''仏土'''である。<br>
しかし'''浄土'''は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、'''浄土'''は'''成仏'''を目標とする'''菩薩'''の世界である。
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 しかし'''浄土'''は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、'''浄土'''は'''成仏'''を目標とする'''菩薩'''の世界である。
  
このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも[[あみだ|阿弥陀]]仏の西方[[ごくらく|極楽]]浄土は有名だが、この外に[[あしゅくぶつ|阿&#x95A6;仏]]の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、[[しゃか|釈迦]]牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、'''浄土'''という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
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 このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも[[あみだ|阿弥陀]]仏の西方[[ごくらく|極楽]]浄土は有名だが、この外に[[あしゅくぶつ|阿&#x95A6;仏]]の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、[[しゃか|釈迦]]牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、'''浄土'''という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
  
'''浄土'''は何のためにあるのかといえば、'''仏'''自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して、化益をほどこし、さとりを開かせるためである。<br>
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 '''浄土'''は何のためにあるのかといえば、'''仏'''自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して、化益をほどこし、さとりを開かせるためである。<br>
雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、'''浄土'''とは仏の'''自利利他'''の二利満足の場である。
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 雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、'''浄土'''とは仏の'''自利利他'''の二利満足の場である。
  
これらの'''浄土'''は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに'''阿弥陀仏'''の西方極楽浄土は、'''往生浄土'''を立場とする浄土教を形成する。
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 これらの'''浄土'''は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに'''阿弥陀仏'''の西方極楽浄土は、'''往生浄土'''を立場とする浄土教を形成する。
  
別世界に「浄土」の建立を説くのではなく、この世界をそのまま「浄土に変現する」という考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『[[ゆいまきょう|維摩経]]』の趣旨によれば、この世界にありながら、この世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『[[ほっけきょう|法華経]]』に、「この裟婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ず」と説くものである(裟婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、[[びるしゃなぶつ|毘盧舎那仏]]の蓮華蔵世界である。
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 別世界に「浄土」の建立を説くのではなく、この世界をそのまま「浄土に変現する」という考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『[[ゆいまきょう|維摩経]]』の趣旨によれば、この世界にありながら、この世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『[[ほっけきょう|法華経]]』に、「この裟婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ず」と説くものである(裟婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、[[びるしゃなぶつ|毘盧舎那仏]]の蓮華蔵世界である。
  
また、仏土のように慕われたものに[[みろく|弥勒]]菩薩の'''兜率天'''(とそつてん)の内院、[[かんのんぼさつ|観音菩薩]]の'''補陀落山'''(ほだらくせん)などがあり、ある意味で'''浄土'''に準ずるものである。
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 また、仏土のように慕われたものに[[みろく|弥勒]]菩薩の'''兜率天'''(とそつてん)の内院、[[かんのんぼさつ|観音菩薩]]の'''補陀落山'''(ほだらくせん)などがあり、ある意味で'''浄土'''に準ずるものである。
  
最も'''浄土'''として特色のあるのは、この世界とは別に、仏によって建立せられた'''浄土'''があるという考え方である。その'''浄土'''へ往って仏に導かれて自分も悟りをうるとする浄土の考え方である。この'''浄土'''の考え方が、もっとも宗教的なものであろう。<br>
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 最も'''浄土'''として特色のあるのは、この世界とは別に、仏によって建立せられた'''浄土'''があるという考え方である。その'''浄土'''へ往って仏に導かれて自分も悟りをうるとする浄土の考え方である。この'''浄土'''の考え方が、もっとも宗教的なものであろう。<br>
この点で「心浄土浄」の考え方は、理論的には理解され易いが、本当に納得を与え、生存の根本問題の解決には、空々しく感じられる。
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 この点で「心浄土浄」の考え方は、理論的には理解され易いが、本当に納得を与え、生存の根本問題の解決には、空々しく感じられる。

2019年2月4日 (月) 08:17時点における版

浄土

 穢土(えど)に対していわれ、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界などとも言われる。

 穢土とは穢国ともいわれるように穢悪(えあく)に満ちた世界。『維摩経』仏国品に「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」と、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。
 『往生論註』巻上では「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、穢土というのは虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって、丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界だという。
 ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。

 このように精神的物質的に、何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄であり、清涼な世界である。このような清浄の世界は、正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。
 『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄は、そこに住む人の心によって決定づけられる。

 そこで、真実の浄土の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。
 しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土成仏を目標とする菩薩の世界である。

 このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。

 浄土は何のためにあるのかといえば、自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して、化益をほどこし、さとりを開かせるためである。
 雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利利他の二利満足の場である。

 これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。

 別世界に「浄土」の建立を説くのではなく、この世界をそのまま「浄土に変現する」という考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『維摩経』の趣旨によれば、この世界にありながら、この世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『法華経』に、「この裟婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ず」と説くものである(裟婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。

 また、仏土のように慕われたものに弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)の内院、観音菩薩補陀落山(ほだらくせん)などがあり、ある意味で浄土に準ずるものである。

 最も浄土として特色のあるのは、この世界とは別に、仏によって建立せられた浄土があるという考え方である。その浄土へ往って仏に導かれて自分も悟りをうるとする浄土の考え方である。この浄土の考え方が、もっとも宗教的なものであろう。
 この点で「心浄土浄」の考え方は、理論的には理解され易いが、本当に納得を与え、生存の根本問題の解決には、空々しく感じられる。