所現の化身に対して、能現の本身を本地という。能現所現が相望重々であるので、本地もまた重々であって一定せず、ただ仏の実相法身、即ち究極の本地である。これを越えて更に能現の実身はないからである。これによって地法身と言う。本地即法身である。