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じゅうじゅうびばしゃろんかんやくこう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

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十住毘婆沙論漢訳攷

          藤堂 恭俊

 十住毘婆沙論は十地經に対する龍樹の注釈書で、5世紀の初頭、姚秦の都・長安において鳩摩羅什と佛陀耶舎の共訳のもとに、露出をみるに至った。その後約1世紀を経過した、北魏の曇鸞はその著、無量寿経論註劈頭に於て、この論の巻第五、易行品に説示せられるている、阿惟趣致 avinivartika, avaivartika, avinivartaniya(不退転)の証得をめぐる二途としての難易二道説を、龍樹の見解とは異った新しい独創的な立場から取りあげ、これを自他二力と理解することによって、淨土教の実践的立場乃至その態度の闡明に努めるとと甚だ大なるものがあったのである。
 この小論の意図するところは、その表題に示される如く、難易二道説の成立並びに自他二力と言う理解の成立に関する解明に先立って、十住毘婆沙輪の訳出及び、それをめぐる諸問題を究明しようとするものである。

    一

 鳩摩羅什は梁高僧傳などによると、姚秦弘始三年401十二月廿日をもって長安に達し、種々異説あるなか、僧肇の鳩摩羅什法師誄によって同十五年四月十三日をもってその一生涯を大寺に終わったことが、知ることができる。この間、11年4ヶ月足ずの長安生活に於ける彼の翻訳事業の大半は、般若・法華・維摩などの大乗諸経典の重訳と、龍樹の論書の訳出にあったと言うことができる。このなか、龍樹の論書の随一である十住毘婆沙論の翻訳の事情について、賢首大師法蔵は華厳経伝記第一に、下に掲げるような注目すべき記述をのせている。即ち
  十住毘婆沙諭一十六巻
  龍樹所造 釋十地品義 後秦耶舎三蔵口誦其文 共羅什法師訳出
  釋十地品内至第二地 餘文以耶舍不誦 遂闕解釋〔T51.0156b〕
と言っているのによると、佛陀耶舍の口誦したものを。鳩摩羅什が秦語に翻訳したことが知られるとともに、佛陀耶舎の誦出が第二地を以て終わりとし、第三地以下を口誦しなかったので、完訳されるに至らなかったことが知られる。この法藏によって仰えられる記事は、なにに基づいたものであるか詳でないが、ともかく十住毘婆沙論は佛陀耶舎と鳩摩羅什との共訳であることを伝えるとともに、次のような疑問を喚起する。即ち、佛陀耶舎が口誦したと言うのは、彼の記憶にとどめられていたものを暗誦したことを示すものとして、テキストを手にし、それを誦出すると言う訳出の常規を逸している点に関心が注がれる。言いかえれば、このようにテキストを持たずに、ただ暗誦のみによって経典の訳出が行われると言うことが、少くとも彼の他の訳出においてもあったであろうかと言う問いが提出される。佛陀耶舍の四分律訳出について、慧皎は高僧傳巻第二に於て
  耶舎先誦曇無徳律 偽司隷校尉姚爽晴令出之 疑其遺謬 乃請耶舎
  令誦羌籍藥方可五萬言 經二日乃執文覆之不誤一字 衆服其強記
  卽以弘始十二年譯出四分律凡四十四巻〔T50.0334b〕
と記述しているのによると、四分律の訳出に際しても、テキストを持たないで誦出を行ったことが知られる。このように、彼の記憶力の確実性を保証する文献の現存する限り、十住毘婆沙論の口述は肯定さるべきであろう。
 次に十住毘婆沙論の訳出年時が問題視される。この問題の解決には、それに先立って本問題をめぐる一、二の重要な問題の解明を試みて置かなければならない。先づ第一には、佛陀耶舍の長安入りの年時についてである。これに関して貴重な肥事を伝える四分律序には
  曁至壬辰之年 有晋國沙門支法領 感邊土之乖聖 慨正化之未夷
  乃亡身以俎險 庶弘道於無聞 西越流沙 遠期天竺 路經于闐 會
  遇曇無徳部 體大乘三藏 沙門佛陀耶舍 才體博聞 明錬經律 三
  藏方等 皆諷誦通利 即於其國 廣集諸經於精舍還 以歳在戊申 
  始達秦國 秦主姚欣然 以爲深奧冥珍嘉瑞 而謂大法淵深 濟必由
  戒 神衆所傳 不可有闕 即以其年 重請出律藏〔T22. 567a〕
と言っている。このなか「於精舎還」と言うのは、夙に香月乗光教授が指摘されているように「於請舍還」と精の字を請に訂正さるべきである。かくして佛陀耶舍は、西域に経典探索中であった支法領に遭い、彼の要請に応じて漢土に来至したことが知られる。このことは次に掲げる僧肇の答劉遺民書に於て確証づけられる。即ち
  領公遠擧乃千載之津梁也 於西域還 得方等新經二百餘部 請大乘
  禪師一人 三藏法師一人 毘婆沙法師二人
と言っているなか、大乗禅師は佛駄跋陀羅であり、三蔵法師は佛陀耶舎であり、毘婆沙法師二人は曇摩耶舎、曇摩掘多であることは、この引用文につづく文章によって知ることが出来る。従って、之等四人の外国沙門はみな支法領の要請によって漢土長安に来ったことが知られる。かの僧肇は長安にあって鳩摩羅什のもとにいたのであるから、長安仏教の事情によく通じていたとせねばならない。たとい四分律序の撰者が何人なるか詳でないとしても、彼此相通じて支法領が佛陀耶含に漢土に来至することを要請したと言っているのであるから、このことは事実を伝えるものと言わなければならない。かくして佛陀耶含は支法領の要請により戌申の年――姚秦の弘始十年408をもって、始めて長安に入り、同年四分律の訳出を姚主から依頼されたことが知られる。
 次にこの弘始十年と言う年は、鳩摩羅什にとって小品般若経を四月三十日に訳了した年であり、さらに梁高僧傳 巻第二によれば
  方至長安 興自出候問 別立新省於逍遙園中 四事供養 並不受
  時至分衞一食而已 于時羅什出十住經 一月餘日疑難猶豫尚未操筆
  耶舍既至 共相徴決 辭理方定〔T50.0334b〕
と伝えているように、佛陀耶舎が長安に至ったその時、鳩摩羅什は十住經の翻訳に従事しつつも、その翻訳に困りぬいていたのである。
 鳩摩羅什が、
  夫弘宣法教宜令文義圓通 貧道雖誦其文未善其理 唯佛陀耶舍深達
  幽致 今在姑臧 願下詔徴之 一言三詳然後著筆 使微言不墜取信
  千載也。〔T50.0334b〕
と、佛陀耶舎を姑臧から長安へ迎えることを姚興に要請した書簡のおくに、十住經の翻訳に従事しつつあった彼の心情の一端を伺うことができるであろう。ところで四分律序によれば、佛陀耶舎が長安に至った弘始十年に、姚興から四分律の誦出を依頼されるにあたって「重請」と言われる所以は、四分律誦出の依頼を受けるに先立って、他の経典の誦出について依頼をうけていたことを物語るものである。はたして然らば、四分律の誦出に先立っていかなる経典の誦出に関係したであろうか。即ち鳩摩羅什が誦出にてこずっていた十住經の誦出に関係したであろうことは、容易に推測することが出来る。かく理解することによって、一ヶ月間に亙る停滞状態にあった十住經の訳出は、佛陀耶舎の長安に達した弘始十年、彼の指導、援助によって再開されるに至ったたことが推知せられる。このことは、鳩摩羅什が華厳經系統の思想に充分な理解を持っていなかったことを暗示するものとして、彼の仏教的素養を知る上に重要な事柄としなければならない。
 そこで、十住毘婆沙論はいつ訳出されたかと言う問題に移ろう。私は、鳩摩羅什の他の訳出における翻訳方針を検討することによって、この問題解決の端諸を見出そうと思う。鳩摩羅什は摩訶般若波羅蜜經を訳出するにあたって、いかなる翻訳方針をとったであろうか。即ち僧叡は
  以弘始五年歳在癸卯四月二十三日 於京城之北逍遙園中出此經 法
  師手執胡本口宣秦言(中略)以其年十二月十五日出盡 校正檢括 
  明年四月二十三日乃訖 文雖粗定 以釋論撿之猶多不盡 是以隨出
  其論隨而正之 釋論既訖爾乃文定〔T55.0053b〕
と大品序に記述している。この記述によると大品般若の翻訳は、同経の龍樹の注釈書たる大智度論と密接な関係の下において完了されことが知られる。この事実は十住經の訳出にあたって、同經に関する龍樹の論書たる十住毘婆沙論の訳出を併行せしめることにより、経の訳出に万全を期したであろうことが容易に推測せられる。しかもこの経と論とを併行して訳出すると言うことは、この場合いづれも鳩摩羅什と佛陀耶舍とがコンビとなって訳出にあたったのであるから、その間に何等支障のおこり得る余地は見出せないのである。かく鳩摩羅什の翻訳方針に基づいて十住毘婆沙論の訳出は弘始十年、佛陀耶舎の長安到着を契機として開始され、再開された十住経の訳出に併行してわれたものと推定することが出来る。
 しからば、十住毘婆沙論はなに故に完訳されなかったか。佛陀耶舍はなに故に第三地以下の訳出をこころみなかったのであろうか。この顛末を記述した文献の現存するのを見ないのであるが、そのありうべき状態として、次に示すような四つの場合を推測することが出来る。
 その一は、佛陀耶舎は十住毘婆沙論のテキストを持たずに、ただ彼が記憶にとどめていたものを訳出したのであるから、そこに当然、記憶の崩失と言うことが起りうる可能性が考えられる。即ちこれが訳出中断の原因である。
 次に律蔵の訳出について、佛陀耶舎に対する姚の要請があったことが考えられる。即ち国家権力を背後に持つ姚の要請は、幾分強制に近い性質を帯びているから、彼をして敢て十住毘婆沙論の訳出を中断せしむるに至ったのではなかろうか。
 第三に、十住經の訳出において推知されたように、鳩摩羅什が華巌經系統の思想に対し理解を欠いていたと言うことは、その訳出に支障を要らすのみならず、誦出者たる佛陀耶舎と彼との間に、疏通しないなにものかが生ずる素因となりうる。このようなことがもととなって、誦出の中断をみるに至ったのではなかろうか。僧伝・經録のつたえる限りに於て偶然の戯れか、鳩摩羅什と佛陀耶舎との共訳は、十住經と十住毘婆沙論の両つの場合を外にして、ないと言うことは、一体なにを物語るものであろうか。
 最後に、十住經と十住毘婆沙論とが併行して訳出されたとするならば、論の訳出は経の訳出に対しこれを扶助する任務を荷負うものでなければならない。今、十住毘婆沙論の場合、これを訳出することによって十住經の訳出に対し直接的に参考となり、翻訳を扶助することが出来たであろうか。この問題は直接、論の内容そのものに関連性を持つ。即ち、十住毘要沙論は大智度論のように、随文解釈の形式をとらないで、龍樹の時代に現行していた諸経典を、多く引用しつつ經意の布衍に努めているのである。この点、十住經の翻訳に対し直接的に参考とはなり得なかったであろう。このようなことから期待はずれの感が起り、翻訳方針に添わないものとして、遂に誦出の必要を認めなくなったのではなかろうか。
 この四つの点について考えてみるに、第一は.佛陀耶舍の記憶力の強度性が、羌籍や藥方を短時日をもって暗誦したと言うことにより、裏書きされていることと矛盾する点、この第一の提案は却下さるべきではなかろうか。
 次に姚興の律藏訳出の要請が基となり、佛陀耶舎をして、敢て十住毘婆沙論の訳出を中断せしめるに至ったと言う第二の提案は、律蔵の訳出をもって当時代に於ける急務なる所以が、充分説明せられない限り承認され難い。かの四分律の序に「大法淵深 済必由戒 神衆所傅 不可有闕 即以其年重請出律蔵」と言っているのは、不可有闕と言うような強い響きをもつ、用法において所伝のテキストの全きととを希念するが故に、律藏の訳出を依額したものと理解することが出来る。然らば弘始十年当時、長安仏教界において、律藏の欠分が意職され、その補充が希望されていたのであろうか。即ち、罽賓僧弗若多羅は姚秦弘始六年404十月十七日をもって、長安中寺で十踊律の訳出に従事したのであるが、途中で死去したために完訳されずにあったと言うことは事実である。然しそののち、廬山の慧遠の努力と姚興の敦請によって、未訳の部分は曇摩流支によって誦出され、鳩摩羅什がこれを秦語に訳出し、弘始七年の秋已降において、遂に完訳をみるに至ったのである。從って佛陀耶舍の長安に来至せる弘始十年には既に完訳されたのちのことであった。このようなことから、認出中の十住毘婆沙論の誦出を中断せしめてまで、律藏を訳出せしめる程急務な理由は見出せない。ただ四分律序みづからが「此土先所出戒 差互不同 毎以爲惑 以今律藏檢之 方知所以」と語っているように、既にこの当時、律蔵相互間に盲点を発見していたことは認められるが、これの解決の急務なることが充分意識されていたかと言うことは、なを充分検討さるべき問題である。このような点から第二の提案は一応保留して置きたい。
 これら第一、第二の提案に対し、第三、第四の提案は起りうべき可能性が大であると言わねばならない。即ち龍樹の論書の訳出に尽力した鳩摩羅什が、十住毘婆沙論の訳出に関係しながらも、これの完訳をみるに至らなかったと言うことは、第三の提案において理解しうるであろう。然し、このような両者の間における疏通の欠除は、師弟の間柄と言うことにより、ある程度克服され、打開さるべき性質のものではなかろうか。そうであるにも拘らず十住毘婆沙論の訳出を敢て中断される所以はどこに求むべきであろうか。こと翻訳に関する問題であるから、思想的な面は一応師弟関係と言う間柄においてある程度まで寛和されうるとすれば.その他に秦語に翻訳せらるべき言語の問題が考えられる。即ち佛陀耶舎の誦出する言語が、鳩摩羅什にとって不得手であるか、不慣れであったため、訳出に要する努力と期間とが必要以上にかゝると言う点が考慮される。若し然りとするならば、龍樹の論書の訳出を企図している鳩摩羅什にとって、龍樹の根本的思想に関する論書を一時も早く訳出しなければならないであろうし、弘始十年と言う年は、もはや彼は六十四歳と言う老の坂を登りつゝあるのであるから、この点に関し焦慮を感じていたであらう。はたせるかな、明けて十一年には中論・十二門論を訳出するに至っているのである。このようなことから、十住毘婆沙論の訳出を中断するに至ったものと考えられる。
 第三の提案より第四の提案を顧みるならば、十住毘婆沙論の訳出を、十住經のそれと併行せしめて通めて行うと言うことから切りはなし、全く別個な時期にあらためて繰出することを企図し、一時その訳出を中断したのであるが、その期の至らない間に、佛陀耶舎は惜くも残部の誦出をこころみることなく、帰国してしまったから、遂に完訳をみるに至らなかったのではなかろうか。
 さらに一言、鳩摩羅什の翻訳態度について附記するならば、大智度論の訳出にあたって
  胡文委曲皆如初品 法師以秦人好簡故裁而略之 若備譯其文 將近
  千有餘卷。〔T55.0075a〕
と僧叡をしてその序のなかに語らしめているように、不必要、乃至効果なしと認めた場合には、テキストに拘泥することなく完訳をさけ、抄出をこころみているのである。この事実は、十住毘婆沙論の訳出が、初地において詳しく、第二地において極めて簡単になっていることにおいても見出すことができる。このような傾向において、十住毘婆沙論の訳出が、十住經の訳出にさしたる利益、参考を要らさないと確認されゝば、敢てその訳出の中断が行われることを予想しうるのではなかろうか。

    二

 十住毘婆沙論の漢訳は、たといそれが抄出であったとしても、夙に経録に伝えているように、早い時代からこころみられていたことが知られるのである。従って、佛陀耶舎と鳩摩羅什の共訳になる姚秦訳をもって、この論訳出の嚆矢となすことは出来ないのである。即ち僧祐の撰した出三蔵紀集巻第二 新集撰出經律論録に收められる竺法護の訳出目録のなかに
            或云菩薩悔過法下
 菩薩悔過經  一巻
            注云出龍樹十住論
と記載しているのによると、3世紀の後半に竺法護によって訳出された菩薩悔過經一巻は、一名これを菩薩悔過法と言い、亦菩薩悔過法經とも言い、その割注による限り、龍樹の十住毘婆沙論の抄出本であることが知られる。然るにこの経は現蔵中に欠くのであるが、上述の竺法護訳出目録のなかに、「右九十〔五〕部凡二百巻 今並有其經」と記載されているのによると、竺法護訳出の他の諸経典とともに、僧祐が出三蔵記集を撰述した、梁の天監四年514前後の時代には現存していたことが知られる。
 この菩薩悔過經をもって龍樹の十住毘婆沙論の抄出であるとする説は、上述の僧祐録の割注に基づくのであるが、これは十住毘婆沙論訳出の後、誰れかがこれらの両者を比較した結果、かく経題の下に注記して置いたものを僧祐が採用し、もって経録のなにか割注として書き入れたものと思われる。従って竺法護がこの経を訳出した当初から、十住毘婆沙論の抄出であることが判明していたとは思えない。この説にもとづくと、菩薩悔過經は十住毘婆沙論十七巻の初地・二地のいづれかに位霞せるものの抄出であると言うことが出来る。現藏中に欠いていることであるから確実なことと言い得ないとしても、この経の内容は法経録がこれを「大乗毘尼蔵録」に編入していることにより、大乗の戒律に関するものであったことが確認される。かかる内容規定は明佺録に受けつがれているが、これより約半世紀のちに編纂された開元釋經録巻第十六に、智昇はこれを「大乗律別生 七部七巻」のなかに編入しないで、「大乗論別生 七部一十一巻」のなかに編入しているのである。この法經・明佺両録と智昇録における内容規定に関する相違は、次のように理解することが出来る。前者は抄出本の母胎たる十住毘婆沙論を全く考慮に入れることなく、この経をもって一経典として取扱うことにより、その内容を大乗毘尼と規定したものであり、後者はこの躯をもって十住毘婆沙論の抄出本であると言う観点から、これを大乗論別生に編入するに至ったのではなかろうか。然らば菩薩悔過經は十住毘婆沙論のいかなる部分の抄出であろうか。今、十住毘婆沙論をみるに、浄毘尼經、無盡意菩薩尸羅品のような戒律に関する経典を引用する他.巻第五除業品に懴悔等の四方便を説くなか、つぶさに発露懴悔の法を説き、つづく巻第六分別功徳品には懴悔の福徳・懴悔と業障の関係とについて言及しているのである。この菩薩悔過經はそれらのなかのいづれを抄出したものか詳でないが、この除業品乃至分別功徳品所説の懴悔法であったとすれぎ、極く短篇の経であったと言うべきである。
 竺法護の訳出経典のなかに悔過に開する経典が、今の菩薩悔過経の外に、佛悔過經 一巻、文殊師利五體悔過經 一巻、舎利弗悔過経 一經、三品悔過經 一巻の四部四巻をあげることができる。このなか佛悔過經・三品悔過經の二部をのぞく他の二部は、僧祐の時代に現存していた経典で、現蔵中には文殊師利悔過經のみ現存し、その他はすべて現存していない。かの法經録の編纂者は三品悔過經をのみ小乗毘尼藏録のなかにおさめ、佛悔過經などの三部を大乗毘尼藏錄のなかにをさめている。竺法護は僧傅に記述されているように、西域地方に遊び、多くの梵經を賷して帰朝したのであるから、これら菩薩悔過經などの五部五巻の一類の悔過經典も亦、恐らくかの西城地方から請来し来った、諸経典のなかに含まれていたものと想像することが出来る。若し然りとするならば、諸種の悔過法が西域地方に於て現行していたことが推知せられる。

    三

 梁の僧祐は出三蔵記集巻第四の一巻を『新集續撰失譯雜經錄」に充当せしめ、一五○六部一五七○巻の多きに亙る失訳経典を列挙している。このなか
  初發意菩薩行易行法 一巻 出十住論易行品
  十住毘婆沙經 一巻 抄十住論
と言う二経典は、その割注の示すところから、十住毘婆沙論の抄出本であることが知られる。この失訳経典の出拠を指摘する割注は誰れが記録したのであろうか。新集續撰失譯雜經錄には、僧祐時代に現存する経典と、しからざる経典とを分けているなか、これら両者は前者に属するものであり、この雑録の劈頭を飾る僧祐みづからの記述によるならば
  其一巻已還五百餘部 率抄衆經全典蓋寡。觀其所抄(中略)並割品
  截偈撮略取義 強製名號仍成巻軸 至有題目淺拙名與實乖 雖欲啓
  學實蕪正典 其爲愆謬良足深誡 今悉標出本經注之目下
と言っているように、僧祐みづからが抄出経典の本経を詮索した結果を、書きとどめたことが知られる。しからば「抄十住論易行品」あるいは、「抄十住論」と言っているからには、これら両つの抄経を佛陀耶舎・鳩摩羅什共訳の十住毘婆沙論と比較対照することによって、かく記述しえたのであろう。従って両者は、僧祐の所謂「一本數名」なるの類でないと言わなければならない。
 この僧祐の雑経録に列挙せられる、一千三百六部一千五百七十巻に及ぶ数多い失訳経典は、「祐所以杼軸於尋訪 崎嶇於纂録也 但陋學謏聞多所未周 明哲大士惠縫其闕」〔T55.0021c〕と言っているように、後世の経録編纂者に課題を提供するものに外ならない。即ち、訳出者の決定、抄出経典の母胎たる本経を詮索すると言う両つの課題に対し、隋の法経録以下の経録編纂者は、いかにこれを決定し、詮索したであろうか。歷代三寶紀の編者費長房は、初發意菩薩行易宿法をもって、西晉の聶道眞訳となし、内典錄・古今譯經圖紀、開元錄等これに従っている。この費長房の説は、聶道眞の訳出経典を列挙する最後に記載される、「此並見在別錄所載」という別録によったのであろうが、道宣・智昇らの経録編纂者がこの説に依拠したように、信頼のおけるものであるか、否かを疑わしめるものである。
 さらに開元釋経録の編者智昇は、その巻第二
  菩薩五法行經 初發意菩薩行易行法經 上二經並出十住論
と言い。亦、巻第十六 大乗論別生 七部二十巻を列挙するなか
  菩薩五法行經 一巻 祐錄云抄陳錄云抄十住論新纏上
と言っている。これによると智昇は陳録にもとづいて、菩薩五法行經を十住毘婆沙論の抄出本としたのである。もととの經は、僧祐の新集續撰失譯雜經錄にその名を出して居り、僧祐はただ「抄」とのみ注したものであり、この経をもって聶道眞訳となすのは、費長房の歴代三寶紀の巻第六に始まるものである。
 次に十住毘婆沙經一巻は法經錄において、大乗阿毘曇藏錄の衆論別生のなかに入れられている。これによると法經錄の編者は、本経をもって十住毘婆沙論の抄出本とは考えずに、他の大乗論の抄出本と考えていたようである。法經錄はかく十住毘婆沙經と言う、経と名付けられているものを大乗論部に編入せしめていることは、一見奇異な感を抱かしむる。しかし僧祐が出三藏記集を編纂した梁の天監四年514の直後に冩經された。即ち神亀二年519の年号を持つ古冩本。摩訶衍經、第三十一や、普泰二年532冩本の摩訶衍經、大統八年541冩本の摩訶衍經、巻第八などは、みな釋摩訶衍論即ち大智度論のことであり、論を經と書き改めている。このようなことから、經と論の使い分けはいたってルーズであったことが知られる。従って十住毘婆沙經の經の字に拘泥して、その内容決定の鍵をそれに求むことは差控えねばならない。又費長房及び道宣は「未覩經巻空閲名題」と言い、ともに後漢代の失訳となしている。然るに智昇の開元釋經錄に至って始めて後漢代失譯經の誤謬を指摘するに至る。
  右佛遺日〔摩尼寶經 巳〕下六十六部七十二卷 或翻譯有憑 或別
  生疑僞 今既尋知所據故非漢代失源。〔T55.0485a〕
と言うのが即ちそれである。
 更に法經錄巻第五 大乗阿毘曇藏錄に
  易行品諸佛名經 一巻
   右一経出十住毘婆沙論〔T55.141c〕
と言っている。この經は僧祐の新集續撰失譯雑經錄にその名を出さず、亦三寶紀・内典錄・古今譯經圖紀にその名を出さないのである。このことはこの経がいかなる経典なるかを決定するに甚だ暗示的と言わざるを得ない。即ち法經錄・彦琮錄・靜泰錄の三つの経録は、易行品賭佛名經を出して、初發意菩薩行易行法に全然関説するところがないのである。かの僧祐が
  新撰失譯猶多卷部 聲實紛糅尤難銓品 或一本數名 或一名數本
  或妄加游字 以辭繁致殊 或撮半立題 文省成異。〔T55.0021b〕
と言っているように、初發意菩薩行易行法と易行品諸佛名経經とは、「一本數名」の類として、同本異名と考えられるのである。即ち智昇は、開元釋經錄巻第十六 大乗論別生において、易行品諸佛名經 一巻 法經錄云出十住毘婆沙或卽與前易行法同 と言っている。 蓋これを要するに、僧祐の時代に十住毘婆沙論から抄出されたものが、三種類現行していたことが知られる。即ち、初發意菩薩行易行法(一名 易行品諸佛名經)、十住毘婆沙經、菩薩五法經の三部三巻である。これらの抄経出典は現存しないから、十往毘婆沙論の何品を抄出したものか詳に出来ないが、その経題を唯一の手がかりとして、何品を抄出したものであるかを考究してみよう。
 先づ初發意菩薩行易行法は一名、易行品諸佛名經と呼称せられる点、第五巻第九品の易行品を指していることは疑い得ない。現行本易行品をみるに、先づ難易二道の説を出し、しかるのち、東方善徳等の現在十方十佛をあげ、ついで阿彌陀等の現在一百余佛、毘婆尸等の過去七佛及び未來世彌勒佛、徳勝等の東方八佛、過去未來現在の三世諸佛と次第し、最後に善意等の一百四十三菩薩の名を出しているのである。これは間違いなく初發意菩薩行易法が、易行品の抄出なることを物語っている。次に菩薩五法行經は、巻第四第八品の阿惟越致相品を抄出したものと考えられる。即ち、等心於衆生・不嫉他利養・不説法師過・信楽深妙法・不貪於恭敬の五つをよく実行出来るものをもって、「具足此五法 是阿惟越致」と言い、阿惟越致菩薩の実践として五法行を示し、これに対し、次には敗壊菩薩の行動を説示して無有志幹・好樂下劣法・心不端直・不信楽空法・但貴言説の五相を掲げ、最後に阿惟越致に至る行法として、不得我・不得衆生・不分別説法・不得菩提・不以見佛の五法行を具さに説示しているのである。
 今かの経の経題から判断するに、菩薩五法行經は間違いなくこの阿惟越致相品を抄出したものと言い得よう。最後に十住毘婆沙經はその経題から、その内容の検討を許さない程、莫然として居り、なに品を抄出したものであるかを見極めることは至極困難としなければならない。かく検討を重ねることにより、僧祐の新集續撰失譯雜經錄にをさめられる、初發意菩薩行易行法、菩薩五法行經の二部は姚秦訳からの抄出であり、亦十住毘婆沙經一部は姚秦訳の論題目と撥を一にする点、これも姚秦訳からの抄出であろうことが推察される。
 惟うに十住毘婆沙論の流伝は詳にしえないが、北魏の靈辨476-522はその著華厳經論のなかにしばしばこの論を引用し、亦曇鸞は無量壽經論註に「謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云」〔T40.0826a〕と引用し、その劈頭を飾っているのである。この靈辨・曇鸞の生存期間内に、南の方、梁に於て天監十四年514をもって出三藏記集が編纂されたことを考える時、これら三部三巻及び菩薩悔過經一部一巻の十住毘婆沙論の抄出は、これらの義解僧たちと全然無関係とは言いえないであろう。特にかの易行品諸佛名經、菩薩悔過經、明佺録によるならば「已上二百一十經北地目大小乘闕本」と記述されている部類に属するものとして、北シナの地に流伝していたものであり、曇鸞がこの十住毘婆沙論の易行品を採用して新しい立場から、独自の見解を発表していることを思う時、一層その感を深くするのである。

〔昭和28年度文部省科学研究助成補助による「六朝時代に於ける佛敎受容」の一部〕