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いんだすぶんめい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2004年4月3日 (土) 18:13時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版

インダス文明

インダス川流域を中心に前2300年前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。

発掘

1920年ハラッパーがサハニ(D.R.Sahani)により、ついでモヘンジョ・ダロがバネルジー(R.D.Banerji)により発見され、1922年1927年にマーシャル(J.Marshall)が、1927年1931年にマッケー(E.J.H.Mackay)がモヘンジョ・ダロを、また1933年1934年にバッツ(M.S.Vats)がハラッパーを発掘した。

遺跡

遺跡が分布している領域は、東はデリー付近、西はアラビア海沿岸のイラン国境付近、南はボンベイの北200km、北はシムラ丘陵南端に及び、オクサス河岸にも1ヵ所ある。東西1600km、南北1400kmの範囲に約300の大小の遺跡が確認されているが、都市数は少なく、最大のモヘンジョ・ダロやハラッパーでも1km四方以内である。
遺跡はシンド地方、パンジャーブ・北ラージャスターン、グジャラートの3地方に集中、それぞれの地方に一つか二つの都市遺跡があり、その都市経済を支えていた多数の村落の遺跡がある。文明の基盤は、夏季のモンスーン後に起こるインダス水系の不安定な氾濫に依存した氾濫農耕(小麦生産)であった。そのために動く可耕地と生産規模が、都市の小ささや少なさに反映し、壮大な王宮や王墓を欠くということにもなった。
単一の王権が出現しなかったのは、氾濫農耕による社会経済上の制約にあり、この点で灌漑農耕にもとづいたシュメール文明と根本的に異なる。
この農耕形態と再生増殖に対する祈願信仰とは密接に結びつき、樹神、動物神、川の女神などの信仰、水による潔斎や供犠などの祭儀、水と火を使った祭儀がおこなわれた。モヘンジョ・ダロやロータルにみられる大穀物倉は、都市へ運ばれる農産物の収蔵といった社会経済上の意義のほかに、このような信仰のセンターとして宗教上の意義もあり、都市において祭儀をとりおこなう祭司に都市運営の実権があったことが推測される。

起源と衰退

前2300年ごろのこの地域にすでに都市が存在していたことは、編年の確立しているメソポタミア古代の地層で出土したインダス文明の遺物から判明していた。
当時すでに、メソポタミアとの間には海上交易が行われており、ロータルやマクラーン沿岸の遺跡によって判明している。この海上交易をインダス文明の統治者が統御して、直接、シュメールと交渉していたかどうかは不明であり、むしろオマーン湾を中継地とする中継貿易であった可能性が、バーレーン島の遺跡・遺物からみて考えられる。

この都市時代は前1800年ごろまで続き、インダス河口地帯の隆起による異常氾濫や河川の流路変更などの自然条件、あるいは内在していた諸原因のため、都市機能が衰退し、グジャラートやパンジャーブなど、地方別に文化の様相が変化し、地方の村落文化へと解体した。
この衰退期はグジャラートでは前1500年まで続く過程で、西インドの先史諸文化の発生を促し、パンジャーブでは徐々に北西方から移動してきたインド・アーリヤ語系の民族と接触し、前2000年紀後半にガンジス平原を開拓した彼らについに同化された。
インダス文明という呼称は都市出現の準備段階からこの衰退期までをさすが、都市出現前夜に関してはほとんどわかっていない。都市の基礎の下には、前3000年紀前半にすでに囲壁をもつ町邑が存在し、イラン南部との交流を示す文化が近年あきらかになったが、その土器はインダス文明都市時代の土器とは異質である。

都市と度量衡

ひとつの都市全体が計画設計されたことは、同時代に類例がない。東に市街地、西に城塞をおき、両者を整然と区分した。ともに南北に長い長方形か平行四辺形の平面をもつ。カーリーバンガンではいずれにも囲壁がある。街路は直線で、ほぼ直交し、道路幅は1.8mを単位とし、その倍数に従っている。
市門は必ずしも目抜通りには開かない。住居は2階建ても多く、2-数十室。中庭つき邸宅もあるが、例外なく入口は小路に開いている。 モヘンジョ・ダロは住居の一室に井戸を設け、水使用の配慮をした床構造の室から大通りへ排水溝が完備する。
城塞は人工築壇で、その上にモヘンジョ・ダロではプール状沐浴場を中庭にもつ建物があり、穀物倉や大建築がとりかこむ。カーリーバンガンでは邸宅区である北区と「水と火の祭儀場」である南区に分かれる。
墓は長方形または楕円形の土塁で、多くは棺槨なしに直接頭を北に仰臥伸展ないし側臥屈葬とする。まれに合葬もある。副葬品は十数個の土器を頭付近に置く。装身具をつけ、銅鏡を置き、紫檀棺にヒマラヤ杉材の蓋をした女性墓は特異である。

この墓と、同タイプのものが九州南部に存在していることが確認されており、日本にもこの文明が到達していたのではないかと推論する学者もいる。

都市時代の特色として道幅や瓦の規格性をはじめ、度量衡の統一がある。瓦の縦横厚の比は4:2:1に統一されている。モヘンジョ・ダロ、ハラッパーなどでは城塞の築壇や城壁の芯以外はみな焼瓦を使った。商業活動で重要な障のおもりは石製で、二進法と十進法が併用されていた。

インダス文字

普通2~5cm平方の凍石製印章は、表にインダス文字と動物などを陰刻し、裏にこぶ状のつまみをもっている。文字は印章のほかにも刻まれ、基本字数400と簡単な文法がしられ、ドラビダ語の特徴を具備する。しかし、短文(平均5字)であること、既知の言語との併記がないため未解読である。 動物は一角獣、短角牡牛、コブウシ、水牛、サイ、カモシカ、角付きの象、牛角付き人物など、角に意味があったらしい。神像(獣主、樹神)や祭儀場面もみられる。石、青銅、テラコッタの彫像には、人物(女性像、神像、祭司)、動物、荷車があり、みな祭儀に関係している。

土器

土器は黄灰色~桃色を呈する素焼が一般的であるが、濃い赤色のスリップの上に黒彩を施した彩文土器に特色がある。石器はチャート製の影片石器が圧倒的に多く、青銅または銅の器物はほとんどみな鍛造である。とくに武器・利器類は劣弱で、幾世代にもわたって改良されたあとがみられない。

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