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さんてんじゅうにぎょうそう

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2023年12月27日 (水) 09:39時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (三転法輪十二行)

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三転法輪十二行

「三転十二行相」と初期経典では言う。

 これに2種がある。
 一に教の十二、四諦の一々に示勧証の三転があって、十二の教法となるもの。
 二に行の十二、三転の一々に眼智明覚の4種の智を生ずるもの。若しこれを四諦各別に論ずれば48行あり。眼智明覚とは見道の十六心の中、四法智忍を眼とし、四法智を智とし、四類智忍を明とし、四類智を覚とす。これ見道について解す。又、眼は観見の義、智は決断の義、明は照了の義、覚は警察の義(以上の2義は『婆沙論』)。又眼は総体の智に名づけ、智明覚の3は次第のごとく果現未を知るのに名づける(慈恩大師の義)。
 この後の一義は見修無学の3道に通じて解釈する。

 眼は謂わく法忍智。智は謂わく諸の法智。明は謂わく類忍智。覚は謂わく諸の類智なり。復た次に眼これ観見の義。智これ決断の義。明これ照了の義。覚これ警察の義。〔大毘婆沙論79、T27.0411a〕

 この2種の十二の中に十二行法輪(法華経)、十二行相(倶舎論)と言えば行の十二をもって解釈するのを本義とする。天台の文句は教行の2義を挙げるが、『倶舎論玄賛』は単に行について解釈している。

一、示 苦聖諦とは、このようなものである。
  勧 苦聖諦を、完全に知るべきである。
  証 苦聖諦を、すでに完全に知り終えた。
二、示 苦集聖諦は、このようなものである。
  勧 苦集聖諦を、断ずべきである。
  証 苦集聖諦を、すでに断じ終えた。
三、示 苦滅聖諦は、このようなものである。
  勧 苦滅聖諦を、目の当たりに見るべきである。
  証 苦滅聖諦を、すでに目の当たりに見終えた。
四、示 苦滅道聖諦は、このようなものである。
  勧 苦滅道聖諦を、繰り返し修すべきである。
  証 苦滅道聖諦を、繰り返し修し終えた。

 四聖諦を三転十二行相をもって観ずるというのは、ふつうの出家仏教徒にとっては、最高段階、最終段階における禅定と位置づけられる。出家でも初心者は、まず自他の身体を不浄だと見る不浄観を中心とする五停心観からはじめて、幾種類もの観を一つひとつ修し終えた末に、四聖諦の三転十二行相観がくる。ところがゴータマ・ブッダは、四聖諦観にいたるまでの幾種類もの観を、苦行時代にすべて修し終えていたのである。
 ゴータマ・ブッダは、苦行を捨てたのであるが、苦行のすべてを捨てたのではなく、心を清澄にするのに資する苦行徳目は、捨てずに継承した。今触れた不浄観も、すぐ後で触れる無常観も、ともに元来は苦行の徳目だったのである。
 『マハーヴァッガ』が伝えるところによれば、ゴータマ・ブッダは、このように四聖諦を 三転十二行相をもって観じ尽くしたことによって目覚めた人、ブッダになった。