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しゆい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2025年2月15日 (土) 16:26時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版 (思惟)

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思惟

cintā, cetanā, mīmāṃsā (S)

一般には「しい」と読むが、仏教では「しゆい」と読む。

 その原語は、cintā(思考、熟考)、cetanā(自覚、精神)、mīmāṃsā(熟考、吟味、論究)など、その外多数あるが、いずれも「思惟」と漢訳されており、それぞれの意味のとおり、対象的思惟として用いられている。
 ところが、同じく「思惟」の語が全人格的思惟として用いられている場合がある。その原語はサンスクリット語でdhyānaであり、パーリ語でjhānaである。そのjhānaが、中国へ入ると、最後のaが落ちてjhānとなり、それが「禅」という字に音訳され、あるいはまた、「定」という字を付して禅定ともいわれた。禅定の、禅は音訳であり、定(さだまる)は意訳である。

 考えること。思いはからうこと。
 真実の道理を考える正思惟八聖道の1つで、仏教の正しい道理に背いてよこしまに考える邪思惟(不正思惟)は八邪の一である。

2つの思惟

 対象的思惟は、「考える自分」と「考えられる物」、いいかえれば主観と客観とが相対して成立している思惟である。それは主として頭脳的働きであるということができる。
 これに対して全人格的思惟は、主観即客観、客観即主観、主観と客観とが一体となっている思惟であり、対象的思惟が頭脳的であるのに対して、全人格体的であるということができる。