じょうど
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浄土
kṣetra-pariśuddhi: kṣetra-viśuddhi-vibhutva (S)
穢土(えど)に対していわれ、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界などとも言われる。
穢土
穢土とは穢国ともいわれるように穢悪(えあく)に満ちた世界。『維摩経』仏国品に「丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり」と、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。
『往生論註』巻上では「三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し」といい、穢土というのは虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって、丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界だという。
ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
穢土との違い
このように精神的物質的に、何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄であり、清涼な世界である。このような清浄の世界は、正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。
『維摩経』には「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」といい、また『心地観経』には「心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢(ぞうえ)なるが故に世界雑穢なり」とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄は、そこに住む人の心によって決定づけられる。
仏土
そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。
しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。
諸仏国土
このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
浄土建立の意趣
曇鸞は『浄土論註』上下二巻の双方において、浄土の二功徳成就相の二に註釈を施しているが、そのなか特に上巻において、浄土建立の意趣を此岸とかかわらせながら、次のように説いている。
- 仏もと、この荘厳清浄功徳をおこされたる所以は、三界をみるにこれ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚭蠖の循環するごとく、蚕繭の自縛するがごとし。哀れなるかな衆生、この三界に縛られ顛倒不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置いて、畢竟安楽大清浄の処を得せしめんと欲す。この故にこの清浄荘厳功徳をおこされたるなり。〔国土荘厳功徳成就第一偈釈〕
このように浄土は、迷妄の世界になんらのかかわりもなく、ただ超然と孤高を誇るのでなく、むしろ積極的に迷妄の世界に惑(虚偽)と業(輪転)と苦(無窮)をかさねる者にたいして、救済のはたらきを持つ世界であり、迷妄なる者をして安楽大清浄の世界に安住せしめんとする意趣にもとづいて建立されたのであるから、「この(国土・仏・善薩)三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄願心の荘厳したもうところ」〔巻下、浄入願心〕であると指摘している。
浄土のはたらき
浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して、化益をほどこし、さとりを開かせるためである。
雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利利他の二利満足の場である。
これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。
この世を浄土にする
別世界に「浄土」の建立を説くのではなく、この世界をそのまま「浄土に変現する」という考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする『維摩経』の趣旨によれば、この世界にありながら、この世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、『法華経』に、「この裟婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ず」と説くものである(裟婆即寂光)。この考え方に立つのが、釈迦の霊山(りょうぜん)浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。
また、仏土のように慕われたものに弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)の内院、観音菩薩の補陀落山(ほだらくせん)などがあり、ある意味で浄土に準ずるものである。
最も浄土として特色のあるのは、この世界とは別に、仏によって建立せられた浄土があるという考え方である。その浄土へ往って仏に導かれて自分も悟りをうるとする浄土の考え方である。この浄土の考え方が、もっとも宗教的なものであろう。
この点で「心浄土浄」の考え方は、理論的には理解され易いが、本当に納得を与え、生存の根本問題の解決には、空々しく感じられる。
浄土に生まれる者の楽(らく)
浄土教では報土で西方に実在するとし、それに生まれる者の受ける楽として『往生要集』巻上本には
- 聖衆来迎楽
命終に臨んで阿弥陀仏や観音・勢至の二菩薩などが来て迎え浄土に導く - 蓮華初開楽
蓮華に託して浄土に往生〔化生〕してから、その蓮華が初めて開いて浄土の荘厳を見る - 身相神通楽
三十二相の身と天眼などの五種の神通〔五通〕を得る - 五妙境界楽
色声香味触の五境が勝妙である - 快楽無退楽(けらくむたいらく)
楽を受けることが窮まりない - 引接結縁楽(いんじょうけちえんらく)
さきに縁を結んだ恩人などを浄土へ迎えとる - 聖衆倶会楽(しょうじゅくえらく)
多くの菩薩たちと一か所に会する - 見仏聞法楽
仏を見、教えを聞くことが容易である - 随心供仏楽
心のままに自由に十方の諸仏を供養する - 増進仏道楽
修行が進んでついに仏果をさとる
の十楽を説く。また極楽には辺地、疑城、胎宮、懈慢界(極楽に至る途中にある国とも、また阿弥陀浄土の化土ともする)などがあり、仏智を疑うものの生まれるところとする。ex.仏土