しゃか
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
釈迦(しゃか)
インド北部の部族の名前。インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥ(Kapilavastu (skt))を支配していた
仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニ(zaakyamuni (skt))の音訳、釈迦牟尼(しゃかむに)すなわち「釈迦族の聖者」の略。釈尊(しゃくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈迦は歴史的実在の人物であり、その人種(モンゴル系かアーリヤ系か)や死没年(前483年、前383年など、南方仏教圏では前543年)は学問上の問題として論じられている(釈迦が80歳で死去したことは定説とされる)。
釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナ(zuddhodana (skt))(浄飯(じようぼん)王)とその妃、摩耶(マーヤー、maayaa (skt))の子としてルンビニー園で生まれた。
姓はゴータマ(瞿曇(くどん、釈迦族全体の姓)、gautama(skt)、gotama (pali))、名はシッダールタ(悉達多、siddhaartha (skt)、siddhattha (pali))。
産まれてすぐに7歩歩いて右手で天を指し、左手で地を指して、「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。
生後7日目に母を失い、以後は叔母(実は継母でもある)マハープラジャーパティーに育てられた。アシタ仙人から、「長じて偉大な王になるか、偉大な宗教者になる」との予言をうけたため、王になってほしいと願う父王によって何ひとつ不自由のない王宮の生活があてがわれた。しかし、耕作の光景に接し、農夫や牛馬の労する姿を見、露出した虫が鳥についばまれるさまを見て世の苦しみを悟る。また城の東・西・南・北の門から外出しようとして老人、病人、死人、出家者に遭遇し、自分の進むべき道を予見する。ヤショーダラーを妃とし、一子ラーフラ(raahula)をもうけたあと、一夜、愛馬カンタカと御者チャンダカを従えて城を脱出し、マガダ国で沙門(修道者)の生活に身を投ずる。2仙人に禅の指導をうけたが満足せず、6年苦行に励んだが得るところなく、村娘スジャータの提供する乳粥で体力をつけ、ネーランジャラー河畔のアシュバッタ樹の根方で瞑想に入り、ついに菩提(悟り)を得て仏陀(悟った人)となった(アシュバッタ樹はこれよりのち菩提樹と呼ばれる)。最初の説法はムリガダーバ(mRgadaava)(鹿野苑(ろくやおん))で5人の比丘(びく)に対して行われた。その後、拝火外道のカーシャパ3兄弟とその弟子たち合計1000人や、シャーリプトラ(舎利弗)、マハーマウドガリヤーヤナ(目連)、マハーカーシャパ(摩訶迦葉)らが弟子になった。故国からは従兄アーナンダ(阿難)、理髪師ウパーリ(優波離)、息子ラーフラ(羅順羅)が弟子に加わった(十大弟子)。比丘(男の出家者)のほかに、比丘尼(女の出家者)、優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)(男女の在家信者)もできた。釈迦はガンガー(ガンジス川)中・下流域の平原、なかんずくマガダ国のラージャグリハ(王舎城)とコーサラ国のシュラーバスティー(舎衛城)で活動した。前者には国王ビンビサーラの寄進した竹林精舎が、後者にはアナータピンダダ(anaathapiNDada)(給孤独(きっこどく))長者の寄進した祇園精舎があった。
釈迦の教勢が盛んになるにつれ、法敵も増えた。彼の従弟とされ、のちに彼に離反するデーバダッタ(devadatta)(提婆達多)からは狂象をけしかけられ、祇園精舎ではバラモンたちから女性と密通しているとの虚偽の告発がなされた。実際、釈迦の教えはバラモン教の階級制度や祭式至上主義を脅かすものであった。彼の教団では僧の順位は出身階級に関係なく、出家後の年数で決められた。真のバラモンとは生れによるのではなく、行いによるのであった。そして不殺生の教義はバラモン教の犠牲式を否定し、出家主義は祖霊祭をつかさどる子孫の確保を困難ならしめた。ほかに六師外道と呼ばれるライバルもいた。
釈迦の教義は人の心の悩みを解決することをめざした。心の悩みの解決は祭式のような外形的行為によっては達成されない。各人が自己の内面から行う変革によらねばならない。そのための基本的な出発点となるのが四諦・八正道や十二因縁の教義である。これは、一言でいえば、苦悩のよってきたる淵源を追求し、その淵源(おそらく「我あり」との妄執)を取り除くことを教えている。これは当時にあっては驚くほど科学的・合理的な態度である。しかも、自己存在の問題について、現代の深層心理学を先取りするような先見性を示している。これは仏教発展の背後に都市と商人階級という進んだ社会があった事実を反映しているかもしれない。
釈迦は29歳で出家し、35歳で悟り、45年教化活動を行って、80歳で死去した。故国へ向かう旅立ちの途中、食中毒をおこして、クシナガラ(kuzinagara)で2本のサーラ樹(サラソウジュ)の間に横たわって生涯を閉じた。遺体は荼毘(だび)に付され、遺骨は各地の塔(ストゥーパ)にまつられた。釈迦は遺言として「自己自身を灯明(あるいは島)とせよ」「すべては移ろいやすい、怠らず努めよ」「出家者は私の葬儀にかかわるな、葬式は在家者がするであろう」などと述べた。これらの言葉は彼がいかに人間ひとりひとりの魂の救済に意を注いでいたかを示している。弟子が伝道に赴くときに「二人していくな、一人ずつ行け」「俗語で説け」と言ったのも、教えをできるだけ多くの人のものにするためであった。慈悲の精神と涅槃の理想が彼の教えを貫いている。
後世の仏教徒はしだいに釈迦を神格化し、その伝記を粉飾する傾向をもった。輪廻(りんね)転生の思想に基づき、釈迦は今世に出現するまでにすでに多くの生存をくりかえし、そのつど善行に励んだとされた。このいわば修行時代の釈迦は、ボーディサットバ(bodhisattva)(菩薩、すなわち菩提を求める者)と呼ばれ、彼の前世物語(ジャータカ、本生譚)がいくつもつくられた。一方、大乗仏教では、彼は永遠の仏の顕現とされ、化身または応身と呼ばれるようにもなった。釈迦の誕生日については「バイシャーカ月白分8日(または15日)」の伝承が生まれ、中国暦ではこれが4月8日に換算され、南方仏教圏ではベーサク月(4月~5月)の満月の日にあてられている。