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たい

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

2004年5月23日 (日) 23:13時点におけるマイコン坊主 (トーク | 投稿記録)による版

たい、dhaatu (sanskrit)

一般に「ものがら」と言い、はたらき()の本体と考えれば分かりやすい。もしくは、「用」は体に従属するものであって、花と香りの関係であるとする。

モノの一定不変であって、他と区分できる一分が所依する根本のものをという。これに対して、能依の区分できるものをという。この体相について性相(しょうぞう)2宗で区別がある。
法相宗では、能依の相の外に、所依の体があるとする。草木の外に大地があるようなものだという。
華厳宗では、ただ能依の相そのものを所依の体とする。
たとえば人間で言うならば、法相宗では四肢五官は相であり、この外に同分の阿頼耶識があって、これが所依の体となる。華厳宗の場合は、四肢五官と同分の阿頼耶識を包摂したものを体として、他に体があるとはしない。
円成実性と依他起性との関係もこのようなものである。法相では依他起のすべての他に円成実の真理があるとし、華厳では依他起の万有の相を該通するものが、即、円成実の真体であるとする。

kaaya (sanskrit)

身体の体。

体とは「通」の意味である。理に通達をすることを「体」といい、「体信」「体達」「体会」などという。