ずだぶくろ
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
頭陀袋
今日、一般に頭陀袋というと、どのようなものでも自由に入れることのできるようなだぶだぶの袋のことをいっている。また、死者を葬る際、死人の首にかけ、その中に六道銭などを入れる袋をいう。この場合は死人を冥途の旅に出る修行者になぞらえたのであろうか。このような点で、頭陀袋とは、いわゆる袋状の物入れのことをいう。 ところで、このような物入れをなぜ頭陀袋というかといえば、これは頭陀を行ずる修行者が、いろいろ身の廻りの品物を入れてもち歩いた袋であるからである。もし、このように頭陀袋とは頭陀を行ずる行者の持ち物を入れる袋と理解するなら、そこに入れるものは修行者が所有物として持つことを許された品物だけに限られねばならない。 すなわち、何でも便利に入れることのできる入れ物ではない。後には頭陀十八物といって、頭陀に使用する品物として、次のような十八の道具の名をあげている。 すなわち、楊子、澡豆、三衣、瓶、鉢、坐具、錫杖、香炉、奩、漉水嚢、手巾、刀子、火燧、鑷子、縄床、経律、仏像、菩薩像などである。したがって、これらの中の小物を入れるのが普通であっただろう。 しかし、古くは比丘の持ち物は三衣一鉢を主とするわずかな品物ときめられていたから、主として三衣を入れていたでもあろう。たとえば、頭陀袋に「三衣袋」、「衣嚢」〈えのう〉「打包」〈ちゃうほう〉などの別名があり、常用の衣は上におき、常用でないものは下におくことなどともきめられている点、大体、山野を歩いて修行した修行僧が、衣の汚れることをさけるために、この袋を用いたであろうと思われる。 三衣については「袈裟」の項で述べたが、王宮に招待された時などにつける大衣、正装衣、礼拝、聴講などの場合に用いられる上衣、日常生活の作務、就寝の場合などに用いる中衣をいうのである。 以上、述べたように頭陀袋とは、頭陀の行者が修行の折に待っていた袋ということであるなら、その頭陀の行とは一体何なのか。 まず、頭陀〈ずだ〉とは梵語ドゥータ〈dhuuta〉の音写であり、「杜多」、「投多」、「塵吼多」などと音写され、「抖〓」〈とそう〉、「修治」、「洗浣」、「〓汰」、「紛弾」、「揺振」、「棄除」などと訳されている。 これらの訳語は、それぞれ、このドゥータの文字の意味を示しているが、梵語ドゥータは「放棄された」、「遠ざけられた」という意味の文字である。すなわち、「煩悩の垢をとりさって、衣食住などの一切に貪著しないで、清浄に行ずる」という仏道の修行を意味するのである。いま「抖〓」とは「打ちはらうこと」、「修治」とは「戒行を厳守して心をおさめること」、「洗浣、〓汰、紛弾、揺振、棄除」などは 「汚れを取り去り、身心の悪法を除去すること」を意味しているのである。 このように、仏道修行の意味をもつ頭陀行であるから、その実践の形のうえから、この頭陀が「行脚」〈あんぎゃ〉を意味することとなる。すなわち、山野を跋渉して、種々の困難を堪え忍んで、身心を練り、人間の欲望を対治する行脚こそ、頭陀行の根本ともなると考えられたのであろう。わが国の修験道の行者たちの「峯入り」や、時宗の遊行もこの種のものと考えられる。 しかし、頭陀行そのものは、もっと広い範囲の仏道修行を意味している。たとえば『十二頭陀経』〔大正・十七巻所収〕には十二の頭陀行が示されている。しばらく、それらについて述べよう。その十二とは①在阿蘭若処 ②常行乞食 ③次第乞食 ④受一食法 ⑤節量食 ⑥中後不得飲漿 ⑦著弊衲衣 ⑧但三衣 ⑨塚間住 ⑩樹下止 ⑪露地坐 ⑫但坐不臥などである。
① 在阿蘭若処〈ざいあらんにゃしょ〉広々として静かな山野に住んで、村邑聚落の喧しさを離れ、身命財をなげうって、仏道修行することをいうのである。
② 常行乞食〈じょうぎょうこつじき〉常に聚落に入って乞食して、それによってえた食によって身命をささえることをいうのである。すなわち、他から与えられるものによって自らの生命を維持し修行することである。そのために、乞食には在家の人々 に迷惑のかからないようにすることが必要であり、自らの生命をささえるだけのものを受げとることなどと規定されている。 乞食の原語ピンダパータ〈piNDapaata)とは、食物が鉢の中に落ちることを意味している。この乞食は今日のいわゆる托鉢である。現在では他人に寄付を求める時、僧侶が托鉢を行う風があるが、これは本来のものではない。自らの美食をさけ、生命を維持することのできるだけの食事をえて、菩提のために修行する。そこに乞食の精神のあることを忘れた托鉢による寄付集めは仏道の精神にそわないというべきであろう。
③ 次第乞食〈しだいこつじき〉貧しいものと富めるものとの区別なく、順次に家を訪ねて乞食することをいう。
④ 受一食法〈じゅいちじきほう〉一坐に食すべきものを食し、重ねて食をとらないことをいう。
⑤ 節量食〈せつりょうじき〉乞食によって得た鉢の中の食のみに満足し、余他の食を求めないことをいう。
⑥ 中後不得飲漿〈ちゅうごふとくおんしょう〉托鉢して得た食事は日中を過ぎて食すことは許されないので、たとえ果物の汁でも、また氷砂糖のようなものでも食してはならないというのである。
⑦ 著弊衲衣〈じゃくへいのうえ〉弊衲衣とは糞掃衣をいうので、衣服は聚落に捨てられた衣類や布のきれはしなどを洗濯し、それを浄らかなものとして衣服として著用するのが、修行僧のきまりであり、衣服に好衣を求めないことをいうのである。
⑧ 但三衣〈たんさんね〉ただ三衣のみを所持し、それ以外の衣を所持しないこと。
⑨ 塚間住〈ちゅうげんじゅう〉塚や墓地に住むことをいうので、人間の欲染の心を制伏し、また人生の無常を自覚するに好都合であるからである。
⑩ 樹下止〈じゅげし〉常に樹木の下で思惟求道すべきであるとするのである。これは住処への愛著を離れしめることのためである。仏陀の降誕、成道、転法輪、涅槃などが、みな樹下でおこなわれたことは、これを示している。
⑪ 露地坐〈ろじざ〉前の目に示されるように樹下に坐することは住居への執れをはなれしめるために有効ではあるが、それはまだ半分家の中にいるようなものであるから、そこに染著の心を生ずることもある。それで、さらに全くの露地に坐することによって、一切の執れをはなれしめようとするのである。このことについて、樹下での思惟求道には、いろいろの障害があるとして、次のように述べている。 すなわち、樹下にいると雨や露の湿りがかかって冷たい、また樹に住む鳥の糞などがかかり、また虫の害をうけることがあるからであると。そこで何らの覆いのない露地に坐していると、このような過患がなく、衣の著脱が随意であり、月光は遍ねく照らし、心は明利ならしめられ、また空定に入り易い等、種々の利益があるといっている。
⑫ 但坐不臥〈たんざふが〉行住坐臥の四威儀〈しいぎ〉の中で、坐が第一であるとして、仏道修行において重んぜられている。このことから頭陀行でも坐して、臥さないのがよいとされるのである。 坐が最もよい姿勢であるというについて、それは第一に食物が消化しやすいからであるという。第二には呼吸がよく調和するからであるといっている。まだ修行の成熟していないものは、煩悩のおこる隙が多いから、横になって臥することは適当でない。また行住(行立)は心が散動し易いから、久しい間、心をしずめておくことが難かしい。また、睡眠をとるときも、脇を席に著けてはならない。平坐のまま睡をとるべきであるなどと説明している。
以上が『十二頭陀経』の説明であるが、これらは畢竟、衣、食、処に関するものであるとして、慧遠はこれらを三に分類している。すなわち、⑦⑧の二は衣、②③④⑤⑥は食、①⑨⑩⑪⑫は処などに関すると。道宣は最後の⑫は威儀に関するものとして四種に分類している。十二頭陀については経・律において項目に少々の出入があるが、大した異動はない。 頭陀行は仏道修行者の行儀のあるべき形を示していると同時に、修行者の修行の目標、生活について、これを明らかにしているということができる。今日の物質的に豊かな生活が本当に人間の幸福を約束するものであるのか、大いに考うべきことであろう。