しょうじょうねはんぎょう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
涅槃経
Mahāparinibbānasuttanta, 大般涅槃経。
パーリ語で書かれた南方上座部の経蔵、長部第16経・漢訳長阿含第2経『遊行経』および独立の『仏般泥洹経』2巻、『般泥洹経』2巻、『大般涅槃経』3巻はこれに相当する。長部経典中でも最も長く、ブッダの晩年、王舎城から発して、ブッダの最後の地クシナーラーにいたる道程とその事跡・説法の模様と、入滅後の火葬・遺骨(舎利)の分配等を詳述している。ブッダの伝記にははっきりしないことが多いが、これは入滅前後の事蹟を明確にする最も重要な資料である。
ブッダ晩年のころ、マガダの都ラージャガハ(王舎城)では、アジャータサットゥ王がヴァッジー人の征服を計画し、ブッダに大臣を遣わしてその意見を求めた。ブッダは7不衰法を説いてヴァッジー人がそれを有するがゆえに計画を中止すべきことを示唆した。併せて教団が栄えるためにどうしたらよいかを説く。
間もなくブッダはラージャガハを発って旅に出る。教えを説きつつナーランダーを経て、ガンジス河の渡船場パータリ村にいたる。この村は間もなくインドの首都となるが、ブッダは未来の繁栄を予言する。ガンジス河を渡り、ヴェーサーリーにいたった。その付近にて最後の雨安居。ブッダはこの時発病し、激痛が起こった。小康を得て侍者アーナンダに「みずからを灯はとし、みずからをよりどころとせよ」と説く。ブッダは象の眺むるがごとくヴェーサーリーを眺め「アーナンダよ、こは如来の最後のヴェーサーリーの眺めなるべし」と言い。なおも旅をつづけた。パーヴァーの町で鍛冶屋のチュンダが捧げた豚肉料理(または茸)にあたり重い下痢、入滅の地クシナーラーに赴く、アーナンダの悲歎に対してブッダは言う、「アーナンダよ、悲しむな、歎くな、愛する者・好む者ともいつかは別れねばならぬと、かねて教えていたではないか」「われによって説かれ教えられたる法と律とは、われ亡きのちになんじらの師なり」と説く。「すべてのものは壊れゆくもの、放逸にふけらず精進せよ」というのが最後の遺誡であった。
遺体は火葬された。その遺骨は8つの部族らに分配された。マガダ国ラージャガハのアジャータサットゥ王、ヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのサキャ族、アッラカッパのブラヤ族、ラーマガーマのコーリヤ族、ヴェータディーパのバラモン、パーヴァーのマッラ族、クシナーラーのマッラ族らは塔をつくって供養したという。
テキスト
Rhys Davids and Carpenter『diighanikaaya』Vol.Ⅱ(PTS:London,1903)所収。
英訳
T.W.Rhys Davids『Dialogues of the Buddha』Part 1,1899.
独訳
R.O.Franke『diiglianikaaya』1913.
国訳
南伝 Ⅳ
漢訳
大正蔵 l. pp.11-30, 160-207.