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ししゅねはん

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

四種涅槃

catvāri nirvāṇi (S)の訳。

 涅槃の種別に4種あるという意味である。

  1. 本来自性清浄涅槃 nirvāṇa
  2. 有余依涅槃 sopadhi-śeṣa-nirvāṇa
  3. 無余依涅槃 nir-upadhi-śeṣa-nirnāṇa
  4. 無住処涅槃 apratiṣṭhita-nirvāṇa


 菩薩此の滅は四種の涅槃の中に於て無住処なり。一に本来清浄涅槃、二に無住処涅槃、三に有余、四に無余なり。〔梁訳摂大乗論釋13、T31.0247b〕

と言い、

 涅槃の義別に略して四種あり、一に本来自性清浄涅槃とは、謂はく一切法相真如の理なり。客染ありと雖も而も本性浄にして、無数量の微妙の功徳を具す。生なく滅なく、湛たること虚空のごとく、一切の有情平等共有なり。一切法と一ならず異ならず、一切の相と一切の分別とを離れ、盡思の路断え、名言の道断え、唯真の聖者の自内所証なり。其の性本寂なるが故に涅槃と名づく。二に有余依涅槃とは、謂はく即ち真如が煩悩障を出でたるなり。微苦の所依ありて未だ滅せずと雖も、而も障は永く寂するが故に涅槃と名づく。三に無余依涅槃とは、謂はく即ち真如が生死の苦を出でたるなり。煩悩既に盡き、余依も亦滅し、衆苦永く寂するが故に涅槃と名づく。四に無住処涅槃とは、謂はく即ち真如が所知障を出でたるなり。大悲と般若とに常に輔翼せらる。斯に由りて生死涅槃に住せず、有情を利楽し、未来際を窮めて用あるも而も常に寂なり、故に涅槃と名づく。〔成唯識論10、T31.0055b〕

と言えるのがこれである。

本来自性清浄涅槃

 本来清浄涅槃とも言って、一切法の真実性にして、一切有情平等にこれを共有し、客塵煩悩のために汚染されると雖も、しかも本来清浄であって無量の功徳を具えていて、唯まことの聖者の自内証となるものを言う。その性は清浄であって、本来寂であるから涅槃と名づけるのである。

有余依涅槃

 有余涅槃ともいう。煩悩障を断尽するところに顕われる真理であって、苦の依身はいまだに滅していないから有余と言い、煩悩永寂するから涅槃と名付けるのである。

無余依涅槃

 無余涅槃ともいう。生死の苦を出離するところに顕われる真理であって、依身が滅するから無余と言い、衆苦永寂するが故に涅槃と名付けるのである。

無住処涅槃

 所知障を断ずるところに顕われる真如であって、この理は常に般若に輔翼せられるから生死に住せず、大悲に輔翼せられるから、そのゆえに涅槃に住せず、衆生を利楽して止むことがないから無住処と名付け、未来際を窮めてその用尽きないないけれども、而も常に寂なるから涅槃と称するのである。
 生死にもニルヴァーナにも住することのないニルヴァーナ。迷いの世界にもとどまらず、しかも大悲をもって衆生を救うために迷いの世界で活動するから、ニルヴァーナの境地にもとどまらぬこと。



 凡聖一切に対してその具不具を論じれば、一切の有情はみな唯初の一を具し、二乗の無学は前の三を具し、佛はすなわち四つを具しているのである。これは、一切の凡夫および二乗の有学はすでに煩悩障を断尽していないから、ただ本来自性清浄涅槃のみある。二乗の無学はすでに煩悩障を断尽しているから、さらに無余依有余依の二種がある。
 佛は、煩悩障・所知障の2障をすでに悉く断尽するから具に四種涅槃を具えているのである。

 また、成唯識論述記第10巻末によると、二乗の無学の不定性の者にして、回心していまだ地に入らざるは、すなわち自性清浄と有余依との二を具して、もし入地の者は、さらにこの外に無住処涅槃を具し、もし直往の菩薩はただ自性清浄と無住処との二を具すと言われている。ただし、佛はすでに苦集の二諦を断尽するのに、なんのために有余依涅槃を具えると説いているのかと言うのに関して、『成唯識論』には2つの見解を出している。
 一には、如来には実の苦果はないと言っても、苦諦の依身を示すから有余と名づくと言い、一つには惑業所感の苦依なしと雖も、無漏所依の五蘊があるので色身等を具えるから有余依と名づくのだという。またこのように佛にはすでに無漏清浄の色身があるのだが、而も無余依涅槃を具えるということは、惑業所感の色身を離れるという意義を説こうとしているのである。