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じゅうにょぜ

出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』

十如是

 十如ともいう。『法華経』方便品に

唯だ仏と仏とのみ乃ちよく諸法実相を究尽せり。いわゆる、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。    〔T09.0005c〕

という。ここに述べられる十種の如是を十如是という。

注意 この十如是は羅什訳の法華経にのみあり。

 天台宗では、この十如是を諸法実相を示すものとする。天台大師は、これを『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』などにいろいろの形で説明しているが、この中でも『玄義』と『止観』に、この十如の相貌を明らかにしている。

諸法実相

 諸法実相の諸法とは、すべてのものをいい、差別せる現象諸法をいう。実相とは法性ともいうべきもので、平等の理性をいうのである。しかして、諸法実相とは、諸法即実相の意味で、現象差別し現実にある事法が、そのまま平等一味の理性のままにあらわれたものであって、諸法がそのまま実相であるということである。したがって、現象の一々の個物のうちに全体をみるという、一即一切を説くものである。いま、この一即一切の理論を明らかにする根本として十如是を説くのである。

 いわば諸法即実相を具体的に説明するものが十如である。すなわち、相、性、体、力、作、因、縁、果、報の九相がことごとく究竟平等であることを示す。  この中、第一にとは物の外面的な姿をいい、第二のとは物の内面的な本性をいう。第三のとは相や性が備わっている主体的な本体をいい、第四のとは物のもつ内在的な努力であり、潜在的な能力である。第五のとは外に現われる作用であり、能力の顕現としての動作である。ついで第六のは結果をひき起こす直接原因、第七のは間接的な原因であり、果報を引き起こす補助的原因である。第八のは固より生じた果、報は因縁果として出てきた報果をいうのである。最後の如是本末究竟等とは初めの相から終わりの報までの九相のおちつく処の意味で、それらのいきつくところが結局同一の実相にほかならないという意味である。
 ところで、これをそれぞれ四趣地獄餓鬼畜生修羅)と人天と二乗菩薩との四類について、別々に解釈している。これを別解という。たとえば、その中の地獄についていえば、悪人には地獄に堕する前相があらわれるのを相如是といい、常に悪を行じて、それが習い性となり、改変することができなくなるのを性如是、体如是とは地獄に堕し責苦にあう身心の体をいう。力如是とは地獄には剣の山、刃の林があって衆生の身体を裂く力用があることをいう。作如是とは身口意の三業に悪を作ることをいう。因如是とは過去に悪を行じて地獄に堕する、その因をいい、縁如是は悪をなす縁をさし、果は地獄に堕しても、過去に行じた悪が、生起することをいい、報如是は、これらの悪報のままに銅柱にとりつき、熱床に坐するをいう。如是本末究竟等とは、このように相より報まで地獄の姿を示すが、これらも結局は空諦なれば平等であり、仮諦なればその平等のまま假設として現象し、中道諦であるから、この地獄界も理としては中道法界ならざるはないと結んたのである。
 このように地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界に、それぞれ十如を説くのであり、それぞれの差別がそのまま如として平等であると説くのが、十如是である。ここには、明らかに現象差別の事法が、そのまま平等一相の理であることが示され、これが天台の教学の根本を示しているのである。

 なお、これを空、仮、中、の三諦について説明し、空のままが仮、仮のままが中と三諦円融の道理を示すものとして解釈している。すなわち、「如是相如是性如是体如是力如是作如是因如是縁如是果如是報如是本末究竟等」の文章を字輪にして最後の等と最初の如を結んで輪にして読めば第一には

是の如きの相、是の如きの性……是の如きの本 末究竟等

と読める。これは仮諦を示すもので、現にいまみている是のごとき相などである。次に

是の相如、是の性如…是の本末究竟等如なり

と読む、これは空諦を示す。すなわち相も性もみな如(平等の理)に外ならないという意味である。次に

相は是〈ぜ〉に如〈かな〉う。性は是に如う。…本末究竟等は是に如う

と読んで、中諦をあらわすというのである。すなわち、中道よりすれば、一切の諸法はみな是にして非なるものなしとの意である。

 以上の十如是の思想は仏教の根本精神を示すものであり、一切の現象はそれぞれ個として独立差別する。しかし、それらはみな真理そのものの現われであり、根本的には凡て同根であり、了如である。しかし、その一如にとらわれるならば、それは悪平等にして、決して正しい生活の姿勢ではない。ここに差別を差別として許しながら、常に本来平等一相なることを忘れず、一相平等のままの差別なることを自覚することを中道というのである。この点、十如是の説には諸法実相の深意が語られ、それが天台宗の一に一切を具しているという具の哲学の根本となっているのである。