せけんほう
出典: フリー仏教百科事典『ウィキダルマ(WikiDharma)』
世間法・出世間法
世間とは生死の世晃迷いの世界のことであり、出世間とは生死を超えた悟りの世界。法とはこの場合は「存在」の意味。
衆生心には生死の世界の存在(染法)と悟りの世界の存在(浄法)とが、同時に含まれている。人間の心の中で、善と悪(浄と染)は区別され得るが、同時に一つに和合して人格を形成している.ただこれ「一心」である。見方によって、染と浄とは不二であるとも見得るし、染と浄とは別であるとも見得る。
凡夫の心、すなわち衆生心を問題にする時は、染と浄とが共に含まれる。しかし凡夫が修行して佛陀になれば、染法は消失するから、凡夫の衆生心においても、その現象心においては、善悪を合せもつが、しかしその根本の本性においては、自性溌浄であると見なければならない。これが『起信論』の立場であり、法相宗の唯識説と異なる点である。
法相宗では、日常心の根底としての阿頼耶識は「妄識」であると見る。本議では阿梨耶識(阿頼耶識というも阿梨耶識というも、原語は同じ、アーラャ・ヴィジュニャーナ ālayavijñāna、両者は意味が異なるので訳語で区別する)を「真妄和合識」と見る。しかしどこまでも真妄和合であるのではなく、佛陀になれば妄は消失して真識になると見るのである。この真識が、凡夫においては自性清浄心であり、煩悩と共にある点を「如来蔵」(タターガタガルバ tathāgata-garbha)と呼ぶ。衆生といえば、広義の衆生には佛陀も含まれるわけである。
したがって衆生心には、世間法(染)・出世間法(浄)が和合した状態と、世間法が滅して出世間法のみの状態との二つの在り方が考えられる。後者が「摩訶衍の体」を示し、前者が「摩訶衍の義」を示すのである。
故に『起信論』に
- 是の心、則ち一切の世間法と出世間法とを摂すれば、此の心に依りて、摩訶衍の義を顕示す
と述べ、次に
- 是の心の真如の相は、即ち摩訶衍の体を示す
と説くのである。世間法・出世間法を摂すれば、染浄和合の在り方であり、時間的な世界を展開する。ここに大乗の義が現われる。しかし妄法が滅すれば、真如の世界であり、これは永遠の世界である。ここに大乗の体が示されるのである。